安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑情とはなにか2

GTO 2012/07/31 23:38
yamamoya さん

ご説明が全く理解できない訳ではないのですが、結局のところ疑情と煩悩は同じものなのでしょうか?
それとも異なるものなのでしょうか?

疑情=煩悩と初めに説明されたこととの論理矛盾が未だ解消されていないように受け取れるのは、私に理解力がないだけなのでしょうか。


たかぼー 2012/08/01 10:52
疑情と煩悩についての区別をことさらに問題とする理由は何なのでしょうか。学問的興味からのご質問なのでしょうか(某会では疑情と煩悩とは別であると説明していることとの関係で興味があるということでしょうか)。
それとも真宗(本願による救い)を理解する上で重要な意味があるのでしょうか。議論をする上で「問題の所在」(「問題とする理由」)が分かりません。


ティーちゃん 2012/08/01 12:03
yamamoya様
私の問いにはお答え頂けないのでしょうか。念のため再掲します。

阿弥陀仏の救いとは「救いをそのまま聞く」心を与えることではないのですか?
そしてそれは南無阿弥陀仏を称え念ずる者に与えられるのだとの理解は間違いですか?


GTO 2012/08/01 12:10
yamamoya さんは本願を聞き入れない原因を疑情であると説明されています。

真宗とは本願を聞く一つで救われる教えです。
その本願を聞けないという致命的な原因である疑情を問題にすることに何か特別な理由が必要でしょうか?
またそう言われるということは疑情以上に問題にすべきものがあるということでしょうか?


たかぼー 2012/08/01 14:44
1.真宗は本願を聞く一つで救われる教えです。また、その阿弥陀仏の救いとは「本願をそのまま聞いていること(=信楽=大信)」を信因とし大行たる南無阿弥陀仏を行因として浄土往生させて証果を開かせることです。

2.本願をそのまま聞く心(=大信)は阿弥陀仏の本願から生じるものです。祖師は大信は回向されると言われていますので、その心は阿弥陀仏から与えられる心といって良いと思いますが、本願をそのまま聞いているのが大信です。

3.大信は「南無阿弥陀仏を称え念ずる者」に与えられる、との言い方は誤弊を招く恐れなしとしません。前記の大信は大行たる南無阿弥陀仏とともに回向されていますが、救いを求めている人の称念する意業や口業とは無関係に回向されているものです。

4.疑情は自力(分別知を働かして本願を聞くこと)と同義語です。本願召喚の勅命を聞く上で自力は無用です。自力をまじえて本願を聞いている限り本願をそのまま聞いていることにはなりません。よって、自力を捨てろと言われますが、本願をそのまま聞くしか自力が廃ることはありません。この難こそが求めている人にとっては一番問題となるところですが、そのまま本願の勅命を聞けば、これほど得易い信心はありませんから、祖師は易行と言われ、蓮如聖人は心得安の安心と言われています。したがって、疑情以上に問題となるべきものは他にはありません。
 以上のとおり、大信は阿弥陀仏から与えられている信心であり、その信とは本願の勅命をそのまま聞いていることですから、本願をそのまま聞いてくださいという言い方しかできないのです。もちろん法義としてはさまざまな名目を立てて教えられていますが、それはすべて本願の勅命をそのまま聞くということに集約されてきます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120727/1343332558#c1343745494

長くなったので、エントリーにします。事情によりコメントが遅くなり申し訳ございませんでした。

疑情と煩悩はイコールか否かについてですが、疑情の語義によって変わります。
一般的に「疑」は煩悩のことです。
その疑とは、

『大乗義章』6には「疑とは境において不決猶予するをいふ」とあり、疑を猶予不定といわれる。「あれかこれか」という不定を場とする。(教育新潮社_浄土真宗用語大辞典より)

といわれています。

本願をあれこれと計らうことを疑情というといった場合は、GTOさんは上記の意味で理解をされているのではないかと思います。(違ってたらすみません)その意味では疑情=煩悩です。「ある事象に対してあれこれと決まらない精神作用」を疑とすればそうなります。実感としては、そのように思えますが親鸞聖人が「疑情」といわれる場合は、上記の意味も踏まえたうえで定義が異なります。それが以下にあげるものです。

もう一つの意味から言うと、疑情=「阿弥陀如来の法を受け付けない心」のことです。第18願を撥ね付けることです。

またそれにも二つの意味があります。
一つには、凡夫が本願力を受け付けないことを疑情といわれています。

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)

ここで「疑網」とか「遅慮」をいわれています。これが私のような凡夫で修行もしない人が、本願を信受しない場合です(正確に言えば19願、20願の行者も入りますが)。こう言った場合の疑情は、煩悩ではなく「本願を受け入れないこと」です。これも煩悩の一つといえるのですが、定義上分けています。

もう一つは、19願や20願の自力の信をもっているために、18願の信を受け入れないことです。

(61)
仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし(正像末和讃・誡疑讃)

(67)
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける(同上)

ほかにもいろいろとありますが、19願の行者、20願の行者は自らの行によって往生を願うので本願の名号をそのまま受け入れることがありません。

最初にあげた「猶予不定の心」だけを疑情とするのは、本願が私にむけてすでに働きかけて下さっているということを抜きにした話になってしまいます。GTOさんが「疑情以上に問題にすることがあるでしょうか?」と書かれたことに、そのように感じました。

次に、ティーちゃんさんのコメントについてです。

阿弥陀仏の救いとは「救いをそのまま聞く」心を与えることではないのですか?
そしてそれは南無阿弥陀仏を称え念ずる者に与えられるのだとの理解は間違いですか?(ティーちゃんさんのコメント)

阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏を与えて浄土に往生させる、仏に生まれさせるというものです。「救いをそのまま聞く心」というと、何か私が救われると素直な人間になるようですが、そうではありません。そのまま聞くというのは、本願の仰せに信順したことです。ただ今救うという仰せに従ったことです。

そして、何かを期待して念仏するのは自力の念仏です。本願の念仏は私を救うお働きであると、そのまま聞いて称えるのが他力の念仏です。
ティーちゃんさんが、「南無阿弥陀仏を称え念ずる者」と いわれるのが、何かを期待して念仏するという意味であるならば、それは間違いです。

疑情とは何なのか?(ティーちゃんのコメントより)

ティーちゃん 2012/07/25 22:47

計らいとは、疑蓋、疑情と理解したらいいです。

何とも突き放されたようなお答えですが、私には理解が難しいからと思い遣られてのことでしょうか。
だとすれば単に「計らいは疑情である」と言うだけでは表せない難しい何かがあるかのようです。
それが何なのか、そのあとにありました。

「信か疑か」ということは、「救われているかいないか」であり、本願を「聞いているか、聞いていないか」ということです。何か特別に、「疑情」というものを想定して、それを探そうとしても出てこないのは、「疑情」「疑蓋」の言葉の意味を取り違えているからです。

煩悩の他に疑情というこころを想定するのは誤りだ、と述べておられます。
ならば、「計らい」という煩悩の作用を疑情と呼ぶのも誤りのはずです。
疑情は蒸発してしまいました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120724/1343118903#c1343224030

ティーちゃんさんへ
突き放したつもりはありません。
説明が二重になりわかりにくくなったことをお詫びいたします。

実際に「計らい」とは、「分別心」ともいわれ、私が阿弥陀如来の心をあれこれ「分別」(判定)する心をいいいます。仏さまの心を凡夫が判定することは本来出来ません。それを、あれこれ計らうことを「疑」といいます。また「分別心」ともいいます。
そういう意味で「計らいは疑情である」は、それ以外の意味はありません。それ以上に言い表せない難しい問題があるわけではありません。

ただ、疑情も分別心も煩悩のことだから、救われたらなくなるのだろう、ならば煩悩が減るのではないかと疑問を起こす人もあります。
確かに、煩悩は阿弥陀仏に救われたからといって減るものではありません。ならば、計らいとはなんなのか?と考えていく考えは、救われない要因を自らのなかに追求し、それさえなんとかなれば自分は救われるという考えになっていきます。そうなると阿弥陀仏の本願の方に目が向かなくなるので、あまり深く考えなくてもよいところだとお勧めしました。

阿弥陀仏と私の関係性において、「本願を聞かない」「仰せに従わない」状態を「計らい」と呼んだ方がわかりやすいのでそのように説明しました。「本願を聞かない状態の私」は、煩悩具足の凡夫ですから、煩悩のほかに疑情というものを考えてもなにもでてはきません。

一方で、

本願をそのまま聞かない人は、必ず自らの計らいをそこに加えているので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。

聞かない状態が疑でありながら、聞かない人は更にそこに、計らいを「加えている」のだという。
疑情が二重に現れました。
うーん、やっぱり私はバカですね。(テーちゃんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120724/1343118903#c1343224030

これは説明が不適切でした。
自らの計らいを加えて本願を聞いている人は、本願をそのまま聞かないので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。

説明がまだ足りないところもあると思いますので、またご指摘があれば教えて下さい。

信と疑の関係について「計らいとは疑蓋=疑情である、との理解でよろしいのですか?」(ティーちゃんさんのコメントより)

ティーちゃん 2012/07/24 05:44
(略)
計らいは「全く邪魔になる」と明解なお答えです。
煩悩は信楽の邪魔にならないことからすると、計らいは煩悩ではないことになります。
つまり、計らいとは疑蓋=疑情である、との理解でよろしいのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120723/1343034116#c1343076259

計らいとは、疑蓋、疑情と理解したらいいです。

そこで、信心と疑蓋(疑情)の関係について書きます。
親鸞聖人は、「」の反対語として「」という言葉を使われています。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P234)

http://goo.gl/vKodm

といわれているのは、信楽とは疑蓋が交わらないことであると示されています。言い換えますと、信心とは無疑心ということです。

つまり、救われたことを「信」といえば、「疑」は救われていないことをいいます。そこで「無疑心」とは、「救われていないことではないこと=救われていること」という意味です。


親鸞聖人以前は、信の反対語は不信とあらわしていましたが、親鸞聖人はの反対語をと表されて、信疑決判であきらかにされました。


ですから、「信か疑か」ということは、「救われているかいないか」であり、本願を「聞いているか、聞いていないか」ということです。何か特別に、「疑情」というものを想定して、それを探そうとしても出てこないのは、「疑情」「疑蓋」の言葉の意味を取り違えているからです。


本願をそのまま聞かない人は、必ず自らの計らいをそこに加えているので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。反対に、本願をそのまま聞く人は、自らの計らいをそこに差し挟まないので「無疑心」「疑蓋間雑あることなし」です。


救われない原因はどこかにあるはずという考えが丸々疑情であり疑蓋です。なぜなら、本願の名号を聞く以外になにか救いの道があると考えているからです。
本願の名号(行)をそのまま受け入れたことを信といい、それをあれこれ計らって受け入れないことを疑といいます。


従いまして、計らいは「全く邪魔になる」というのは、計らいがある状態を信とはいわないということです。
「ただ今救う」が本願の名号です。南無阿弥陀仏はその喚び声ですから、そのまま聞いて救われて下さい。

「本願をそのまま聞く」ために「私の計らいを差し挟まない」ことを勧められたように受け取めました。計らいは真実信にとって邪魔ですか。また段々計らわなくなれるのでしょうか。(ティーちゃんさんのコメントより)

追記:無根の信について…「阿弥陀仏はただ今救うといわれていますが、私はただ今救われようという気持ちがなかなか起きません」(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄が長くなったので、コメント欄をエントリーにまとめて、あらためて私からのコメントを書きます。

ティーちゃん 2012/07/20 15:19
ただ今助かろうという心をもとより持たないと仰る者に、ただ今聞けと勧めておられますが、矛盾していませんか?



YGM 2012/07/20 16:37
ただ今助かろうという心をもとより持たないと仰る者に、聞こえますから、お伝えされているのでしょう。

それでも助けようという大悲心を教えてもらって、自分を反省し、かたじけないと思うならまだしも、
『矛盾していませんか?』とはひねくれてませんか?


yamamoya 2012/07/20 16:56
ティーちゃんさん

ただ今聞けというのは、ただ今救われて下さいということです。
助かろうという心がない者にむけて、ただ今救うとよびかけられる本願ですから、本願の通りに救われて下さいと言っています。矛盾はしていないです。


たかぼー 2012/07/20 18:17
「助かろうという気のない者」に対して「必ず、救う」と仰る阿弥陀様だから、その願心を伝える側はそのとおりに伝えるしかないのだな。その説かれる阿弥陀様の願心を聞くのも縁、それに反発して謗るのもその人の持っている縁だから、伝える側としては不憫と思えどもどうすることもできないのだ。ただ、質問する側はもっと真摯な質問をしてほしいと思う。「ただ今聞け」とはどういうことかまったく分かっていないのだから、それはどういうことか、もっと突っ込んだ質問をしてほしい。そうすれば、伝える管理人さん側も力が入るようになりますよ。それが「信心の沙汰」です。もっともっと信心の沙汰をしましょう。真宗の繁盛はこの信心の沙汰にあるのですから。


ティーちゃん 2012/07/20 23:34
yamamoya様
それはすなわち「阿弥陀仏の本願間違いないですよ」の呼びかけであって、件の人にどうしろと言っているのではないでしょ。強いていうなら「信じろ」ですか。でも本人は「助かろうという心がない」と言っている、つまり信じられないと言っているのだから、意味があるんでしょうか?

YGMさん、たかぼーさん
バカにバカと言っても効きませんよ。
野次比べなら受けても立ちますが、それがこのタイトルの質問者の問題解決に役立つとは思えないですね。


とくよしみね 2012/07/21 01:42
私は、馬鹿でした。
お前は、馬鹿だよと言われても否定ばかりしていました。
結局馬鹿だ、馬鹿だと言われ続けて、そうか、馬鹿なのかと気づかされました。
馬鹿は、なかなか馬鹿を認めません。
それでも、言い続けないと馬鹿に気が付きません。
お前は、馬鹿だよ。
それだけです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

追伸:「馬鹿」を「石瓦つぶて」と読み替えても結構です。


GTO 2012/07/21 05:46
「ただ今聞け」とはどういうことでしょうか?
ただ今聞けというのは、ただ今救われてくださいということです。というのは、トートロジーであり、説明にはなっていないと思います。
聞く一つで救われる教えと言われます。
是非そこを納得いくまで聞かせていただきたく思います。


yamamoya 2012/07/21 07:45
ティーちゃんさん

私に助かろうという心がないのですが、どうしたらいいですか?という相談に対しては、助ける本願がありますよと伝える以外にはありません。
そんなことで、その人がやる気になるのか?ならないのなら意味がないというご意見かもしれません。しかし、私はやる気になってもらいたくて言っているのではありません。阿弥陀仏の本願はただいま救う本願ですよと伝え、その人が阿弥陀仏に救われることを念じています。


yamamoya 2012/07/21 07:53
GTOさん

ただ今聞けも、ただ今救われてくださいも、阿弥陀仏がすでに呼びかけられているのを前提として書いています。
南無阿弥陀仏とただ今よびかけられています。それをそのまま聞いたのが、信心であり救いです。
どうしたら救われますかの問いは、阿弥陀仏が呼びかけられていない前提があります。救いの手はすでに差し伸べられているのですから、そこにさらに方法を論じる必要はありません。その手にすがれとしか言いません。
南無阿弥陀仏は声ですから、ただ今聞いて下さいとしかいいません。
答えになったでしょうか?


GTO 2012/07/21 13:58
yamamoya 様

ただ今聞け=ただ今救われてください=その手にすがれ
というご回答ということなら申し訳ありませんが、やはり説明にはなっていないと思います。
では、「その手」とはどの手でしょうか?
私のような泥凡夫には、自分に差しのべられている救いの手など見えません。
ですから、すがりようがありません。


ティーちゃん 2012/07/21 15:18
yamamoya様
「私に助かろうという心がないのですが、どうしたらいいですか?という相談」
分かりやすくして頂きました。

「どうしたらいい」は「どうにかなりたい」のですからすでにやる気はあるということですが、
それは煩悩に過ぎないので、その心にいくら自分で接ぎ木しても「ただ今助かりたい」とはならず、
根拠に挙げられた

「栴檀」といふは、衆生の念仏の心に喩ふ

といわれる心こそ、阿弥陀仏から賜る「ただ今」の心だと、バカにも分からせて頂きました。
どうも有難うございました。


たかぼー 2012/07/21 15:21
さてさて信心の沙汰らしくなってきましたね。お尋ねになっている「その手」とは阿弥陀仏の願心(=18願の「摂取不捨」の仰せ)のことです。管理人さん側は「そのまま救うが阿弥陀仏の願心であり、この願心をそのまま頂くの信。」「だからその願心をそのまま今聞いて下さい。」と伝える。これが分からないという人があればそれはその人の心中(=不信)を正直に告白されたものです。つまり、この阿弥陀仏の仰せが「私に向けられている摂取不捨の願心である」と分かるのが信(信解)、分からぬのが不信。これが決定的な分かれ目になっているということがよく理解されます。因みに「救いの手」で思い出すのは唯信抄の一段ですね。「ひく人の力を疑い、綱の弱からんことを危ぶみて手をおさめれて綱をとらずば、さらに岸の上にのぼること得べからず」と不信を戒めている一段がありますね。この一段でいう綱とは18願の阿弥陀仏の仏智の不思議(=願心)のことですが、この願心が救いの綱(=救いの手)であると見えてない(不信)のでしょう。だから、すがりようがない、というのはまさにそのとおりなのですね。よく分かります。信心の沙汰はどこまで行っても平行線になりそうなのですが、そういう人でも信解してしまうときがあるので、仏智不思議なんですね。さて質問です。願心にすがりようがないというのであればどうするおつもりなのですか。

ティーちゃん様へ
私は「バカにバカ」なんて言っていませんよ。また、ヤジ比べする気もさらさらありません。誤解なきようにお願いします。


たかぼー 2012/07/21 15:31
ティーちゃん様へ
書込みの時間差で私の書込みが後になってしまいましたが、「栴檀」が無根の信と理解なされて良かったです。自力を離れたるすがたが無根の信が生じたすがたであり、念仏する心です。


yamamoya 2012/07/21 23:04
GTOさん

その手と言ったのは、阿弥陀仏の救いの手です。確かに、凡夫の目には阿弥陀仏の手どころかお姿も見ることができません。そこで、南無阿弥陀仏となって私に称えられる形で、手を差し伸べられています。


GTO 2012/07/21 23:43
ということは南無阿弥陀仏にすがれという理解でよろしいですね。
それでは南無阿弥陀仏にすがるとはどういうことでしょうか?
ただ口で唱えることではないですよね。


yamamoya 2012/07/22 08:53
GTOさん

南無阿弥陀仏にすがるとは、助けるの仰せを、そのまま聞くことです。ただ今助けると呼びかけられる阿弥陀仏は、助けるぞと手をこちらに差し出されているのです。その仰せに従うことを、阿弥陀仏にすがると書きました。こちらからお願いしますとすがるのではありません。阿弥陀仏にまかせるということです。

念仏を称えるのも、南無阿弥陀仏がそのように私を救うお働きだと疑いなく聞いて称えるものです。


GTO 2012/07/22 10:05
そのまま聞くと簡単に言われますが、そのままとは、どのままでしょう?
どうなったのが「そのまま」なのでしょう。
このように普通に考えれば、疑問しか出ない内容です。
それを疑いなく聞くというのは、思考停止して聞けと、どこかの宗教団体が言いそうな発言に受け取れます。


yamamoya 2012/07/22 17:40
GTOさん

そのままとは、そのままであって、私の計らいを差し挟まないということです。
思考停止とは違います。思考停止は、考えないように努力した結果です。そのまま聞くと、ストレスになることを考えないようにしているだけです。
本願は、私の計らいを差し挟まない真実ですから、凡夫の考えによらないで、お助けを聞くということです。


GTO 2012/07/22 18:13
私の計らいを差し挟まないとはどういうことか?
と結局は疑問が出るのですが、それは凡夫の考えだから止めよというなら、それは思考停止ではないのか、ということです。
思考停止を考えないようにした結果と、結果論で解釈されていますが、私は考えないようにすること自体を言っているのです。


サラ 2012/07/22 19:36
先徳は「骨折って聞け」と。
無耳人が知れるといいですね。
ティーちゃん 2012/07/22 20:24
またまた疑心がムクムクと出ましたので悪しからず。
「私の計らいを差し挟まない」とか「凡夫の考えによらない」とか、
まるで「自分の力で何とかなる」かのように誤解しそうなお言葉が重なりました。私も是非お聞きしたい。
そのままとは、どのままですか?


幹部会員歴数十年 2012/07/22 21:36
サラさん

御無沙汰しています。無耳人の意味が違っていますよ。


yamamoya 2012/07/23 05:34
GTOさん

考えないようにすることが、私の計らいを差し挟まないということにはなりません。なぜなら、「考えないようにする」間しか信心が相続しないということに成ってしまうからです。本願を聞けば、私の計らいはそこに差し挟む余地はありません。

ティーちゃんさん

そのままとは、本願をそのまま聞くという意味です。私の側での、造作を加えないという意味でのそのままと言っています。「ただ今救う」の本願に付け足したり、引いたりもしないということです。ただ今救うと聞いたら、ただ今救われるというのが、そのままと言うことです。


ティーちゃん 2012/07/23 07:35
yamamoya様
「本願をそのまま聞く」ために「私の計らいを差し挟まない」ことを勧められたように受け取めました。計らいは真実信にとって邪魔ですか。また段々計らわなくなれるのでしょうか。


YGM 2012/07/23 09:51
ティーちゃんさん

計らいは邪魔です。真実信にまかせれば安心ですが、それを計らえば不安でありましょう。正しい計らいができるようになるのではありません。
私の場合は、気付いたらいつの間にやら計らわれなくなっておりましたが、そうでない人もいるのかもしれません。

ティーちゃんさんへ

本願を計らっているあいだは、それを真実信心とはいいません。なぜなら、

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P234)

http://goo.gl/vKodm

と言われているからです。

真実信心のことを、信楽ともいいますが、それを「疑蓋間雑あることなし」と言われています。
信楽は基本的に「如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」でありますから、阿弥陀如来の心です。阿弥陀如来が、必ず私を浄土の往生させることに全くさわりがないことを信楽といいます。


ですから、その阿弥陀如来の信楽に計らいを差し挟めば、信楽とはなりません。如来のお仕事に手を出せば、全く邪魔になると言うことです。

もう一つの「段々計らわなくなれるのでしょうか?」については、段々という段階的なものではありません。計らいを入れるか、入れないかというゼロか一かの違いのようにそこは全くことなるものです。

阿弥陀如来の本願の仰せは「本願招喚の勅命」といわれ「汝一心正念にして直ちに来たれ」といわれています。それをそのまま聞くと言うことは、「段々計らいがなくなる」というものではありません。直ちに仰せを聞いたのが信心といいます。

「阿弥陀仏はただ今救うといわれていますが、私はただ今救われようという気持ちがなかなか起きません」(頂いた質問)

阿弥陀仏はただ今救うといわれていますが、私はただ今救われようという気持ちがなかなか起きません(頂いた質問)

阿弥陀仏はただ今救うとつねに呼びかけられています。しかし、「いつかは助けて下されるだろう」と、「待っている」のは阿弥陀仏の本願を聞いているとは言えません。

「待っている」というのは、「ただ今救う」と呼びかけられてている阿弥陀仏に、「いやぁ、今はちょっとその気が起きないんですよ。そのうち助けて下さい」と言っているようなものです。
言い換えると、阿弥陀仏の願いに対して、それを拒否しているということです。「ただ今救う」と言われる阿弥陀仏に「ただ今でなくていい」と言っていることになります。

阿弥陀仏の本願をそのまま聞くということは、私が「ただ今でなくていい」という計らいを入れずに、「ただ今救う」をそのまま聞くことです。気持ちが起きてからというのは、阿弥陀仏の本願を撥ね付けてからそれに対してなにも思わないということですから、そのような計らいは直ちに捨てて聞くことです。

「阿弥陀仏の召喚の勅命をハイと受け入れた時が信心だと聞いておりましたが

信の一念は凡夫には自覚できないとも聞いています。ではハイと聞いたのは
いつの時点になるのでしょうか。」(トカゲさんのコメントより)

トカゲ 2012/07/07 16:23
阿弥陀仏の召喚の勅命をハイと受け入れた時が信心だと聞いておりましたが
信の一念は凡夫には自覚できないとも聞いています。ではハイと聞いたのは
いつの時点になるのでしょうか。

yamamoya 2012/07/07 20:53
トカゲさん

ハイときいたのはいつかといえば、「はいと聞いたとき」と答えるのが一番適当なのですが、同語反復のようで回答にならないと思います。
「ハイと聞いた」と分かるときはいつか?ということでしょうか?

トカゲ 2012/07/07 21:40
「信の一念に、自覚しないままでハイと聞いた」のかもしくは「自分は信心決定しているんだなと自覚したときにハイと聞いた」のかどちらかかということです。私は前者かなと思っていたの
ですが、自覚なしにハイと聞くということがあるのだろうかと疑問がでてきた次第です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120705/1341474416#c1341645796

「ハイと聞いた」というのが、トカゲさんのコメントの文面からすると、「信心決定した」「救われた」事実のことを言われているのだと思います。

その「とき」は、自覚ができるとかできないというものではありません。しかし、そのときが自覚できなくても、本願をつねに聞いて疑い無いのが信心ですから、救われた上ではいつでも「ハイと聞いている」ということになります。

信の一念から後に自覚の上で救われたということがありますから、「自覚なしにハイと聞く(信心決定)」ということはあります。ただ、死ぬまで自覚がないということはありません。(信一念の直後に命が終わるような場合はわかりませんが)

「ハイと返事をした」とか「ハイと自覚した」というこちら側のことではなく、本願が「お前をただ今救う」と本当に聞いていれば、それをハイと聞いたと言っているのです。反対に、「お前をただ今救う」本願を、「どうやって?」とか「どうなればいいのか?」と聞いているのは、本当の意味では聞いていないということになります。これを不如実の聞ともいいます。それに対して、ハイと聞いたことを如実の聞と言っています。

ただ今救うという本願は、ただの呼びかけではありません。実際に私を救う働きがある本願です。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻より・論註引文・浄土真宗聖典(註釈版)P198)

  • 願は力を成り立たせ、力は願にもとづいている。願は無駄に終ることはなく、力は目的なく空転することがない。果位の力と因位の願とが合致して、少しも食い違いがないから成就というのである
http://goo.gl/2vP3a

「願、徒然ならず、力、虚設ならず」の、本願であり、本願力であると如実に聞けば、それは「ハイと聞いた」ということになります。

スッキリハッキリするのが信心だと思っていましたが、違うのでしょうか?(頂いた質問)

スッキリハッキリするのが信心だと思っていましたが、違うのでしょうか?(頂いた質問)

同様な趣旨で「蓋有る水に月は宿らずといわれるから、疑いの蓋が取れたらきれいな月が見えるのでしょうか?」と質問される方もあります。

これは、阿弥陀仏に救われた、信心決定した、疑情が晴れたということを、なにか覚りのようなものだと誤解しているところからくる疑問です。

「お前を必ずただ今助ける」という本願を聞いて疑い無いということは、本願に疑い無いということであって、それ以外になにか悟ったがごとくわかる智恵が身についたわけではありません。また、「阿弥陀仏」がお釈迦さまのように分かるようになったわけでもありません。阿弥陀仏がそのままわかるようなのが凡夫ならば、南無阿弥陀仏となられた道理はありません。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。(教行信証行巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P180)

http://goo.gl/KvFRu

阿弥陀仏の本願は、名号をもって私を救って下さいます。なぜなら、私が仏を知る智恵を持ち合わせていないからです。

また、阿弥陀仏がそのまま分かるようになるとすれば、阿弥陀仏の浄土も分かるようになってしまいます。しかし、浄土は仏にしかわからないものと、ご和讃に言われています。

(12)
安養浄土の荘厳は
 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして
 広大にして辺際なし(浄土和讃・天親讃)

「唯仏与仏の知見」であって、大きさが虚空といわれても、ほとりもきわもない浄土は人間にはとてもわかりません。

スッキリハッキリするというのが、阿弥陀仏や浄土に対する不明点が明瞭に分かるという意味で使う人がありますが、それは間違いです。阿弥陀仏や浄土は凡夫にはわかりません。しかし、「ただ今救う」という本願をそのまま聞いて疑い無いのが信心です。

「ただ今救う」以外の何かも分かろうとすれば、出口のない迷路に入るような者です。なぜなら、ただ今救う以外にはなにも理解は出来ないのが凡夫だからです。ただ今救う本願をただ今聞いて救われて下さい。

関連エントリー

追記:疑心往生についてのコメントまとめ - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

用管窺天記さんのエントリーにも関連したことを書かれていたので、紹介します。
疑情 « 用管窺天記
疑ひながらも、念仏すれば、往生す « 用管窺天記

6月21日のエントリーと関係しますが、自分の心を見つめても煩悩しかありません。そうなると、ますます阿弥陀仏が働いて下さっているのだろうかと思います。(頂いた質問)

6月21日のエントリーと関係しますが、自分の心を見つめても煩悩しかありません。そうなると、ますます阿弥陀仏が働いて下さっているのだろうかと思います。(頂いた質問)

自分の心の中には確かに煩悩しかありません。だからこそ阿弥陀仏の大慈悲がかかるのです。しかし、その煩悩しかない私だからといって、阿弥陀仏のお働きを疑うというのは間違いです。

疑うべきではないことを疑うのは大変嘆かわしいことだと、親鸞聖人は教行信証信巻に、善導大師の般舟讃を引文されています。

光明師(善導)のいはく(般舟讃 七三三)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P260)

http://goo.gl/ORpAx

衆生が疑ってはならないことを疑っているのが、嘆かわしいことだといわれています。浄土は「対面してあひ忤はず」といわれ、人と目の当たりに対面しているように浄土はあり、浄土と私を遮るものは本来ないのです。それにも関わらず、私の方で疑うべきでないことを疑っているのです。

「弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。」といわれています。
阿弥陀仏が救って下されるのか、どうかを論じる必要はないということです。

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって、私をただ今救うと呼びかけておられます。その本願力があるから私は救われるのですから、それを本当かどうかと疑ったり論じたりするものではありません。
本願を聞いて、ただ今救われて下さい。

自分は信心決定したのだろうかと思うときもあるのですが、自分の心の中を探ってみても信心らしいものはありません。私は信心決定しているのでしょうか?(頂いた質問)

自分は信心決定したのだろうかと思うときもあるのですが、自分の心の中を探ってみても信心らしいものはありません。私は信心決定しているのでしょうか?(頂いた質問)

質問された方がどうかということは、私がわかることではありません。

しかし、信心は「心」という字があるからといって、自分の心の中に探しても何もでてはきません。それを浄土真宗では「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」と言っています。

どういう意味かというと、信心とは仏辺に仰ぐものであって、自分の心の中を探して出てくるものではないということです。ここで、仏辺というのは、阿弥陀仏の本願の事です。阿弥陀仏の本願の上に仰ぐのが信心です。本願の上に仰ぐというのは、別の言い方をすると、本願をそのまま聞くということです。そこで「勅命のほかに領解なし」という言葉もあります。本願招喚の勅命を聞いている以外に、信心というものはないという意味です。

仮に自分の心のなかを探ってみて、信心らしきものがあったとしてそれはいつまでも続くものではありません。その変わりに見えてくるものは煩悩しか有りません。
そこで「慈悲は罪悪機中に味わう」といいます。これは、阿弥陀仏のお慈悲は自分の罪悪煩悩の中に味わうということです。阿弥陀仏の大慈悲は、何によって起こされたかといえば、煩悩具足の私をあわれに思われたのです。ですから、私の煩悩を離れて阿弥陀仏のお慈悲というものはありません。
歎異抄第3条では

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば

といわれ、自分の煩悩の浅ましさを知るほど、それを助けて下さる阿弥陀仏の大慈悲が知らされるということです。

その阿弥陀如来の上に信心を見るということですから、自分の心の中に信心だけを探そうとしても何も見つかりません。
ただ今救うの、本願をただ今聞いて下さい。

疑いをなくさないと信心は得られないと聞いているので、なんとか疑いを晴らそうと頑張っているのですがなかなか信をえられません。どうしたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

疑いをなくさないと信心は得られないと聞いているので、なんとか疑いを晴らそうと頑張っているのですがなかなか信をえられません。どうしたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

疑いを無くしてから、信を獲るという考え方は間違いです。
信心とは、本願を聞いて疑心あることないことです。しかし、疑いがなくなった者に阿弥陀仏が信心を与えて下さるという考えは間違いです。

言い換えますと、無疑心のものに南無阿弥陀仏を与えるとは親鸞聖人はいわれていません。無信の者に南無阿弥陀仏を与えると言われています。

「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P711)

http://goo.gl/57CJ1

ここでは「邪見無信のものにあたへたまへる」と言われています。阿弥陀仏は、邪見無信のものに法(名号)を与えると言われています。

私が南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂くときは、「邪見無信」の者なのです。「邪見無信」のままで南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜るということです。

確かに、信心決定するということは、無疑心であってまた正見の者になるということですが、これはあくまで法の徳、南無阿弥陀仏の徳としていわれていることです。私自身の本来の相から言えば、「邪見無信」という相は死ぬまで変わりません。

「邪見無信」の者に法を与えるということは、「邪見無信」のまま助けるということです。私の方でいえば、助かる身に救って下さるということです。

疑いを除かないことには阿弥陀仏は助けて下さらないと思わずに、そのまま救うという本願を、ただ今聞いて救われて下さい。「疑いを無くしてから」と疑いと格闘しても、出口はありません。

別件ですが、アンテナに以下のブログを追加しました。
お慈悲のままに

奮起して心に掛からなくても、面倒くさくても、自力いっぱいでも一生懸命後生を自分にとり詰めてみて仏教を聞くのがいいのでしょうか。(頂いた質問)

私の心境を述べますと、後生の一大事が全く心に掛からないし、別に仏教聞く理由も無い。
毎日、自分の煩悩やりたい放題に生きています。

それでは駄目だと奮起して心に掛からなくても、面倒くさくても、自力いっぱいでも一生懸命後生を自分にとり詰めてみて仏教を聞くのがいいのでしょうか。(頂いた質問)

頂いた質問の内容からすると、「後生の一大事をとりつめて、煩悩を抑えて、自力一杯聞くのがよい」と言われているようです。

阿弥陀仏の本願は、上記のような人を優先的に救う本願ではありません。平等に救って下さる本願です。こういう人の方が早く救われるだろうと考えるのは人間の考えで生み出した幻想です。

なぜ「特定の人を優先することがない」のかといえば、阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏となって現在私に呼びかけられているからです。それは、どんな人でも平等に呼びかけられています。「特定の人」にだけ、強く呼びかけられると言うこともなければ、「そうでない人」には呼びかけられていないということもありません。

(53)
弥陀・観音・大勢至
 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ
 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃)

阿弥陀仏は、大願の船に乗って生死の海に乗り込んで呼んでおられます。
ただ今救うの本願を、ただ今聞いて救われてください。自力一杯と奮起する前に、本願を聞いて下さい。

こんな私が仏教聞くのも全て阿弥陀様の働きによるのでしょうが、自分の心に少ししか無い求道心を焚き付けて聞くのが良いのでしょうか?(頂いた質問)

こんな私が仏教聞くのも全て阿弥陀様の働きによるのでしょうが、自分の心に少ししか無い求道心を焚き付けて聞くのが良いのでしょうか?(頂いた質問)

結論から言いますと、「求道心を焚きつけて聞く」必要はありません。本願をそのまま聞かれたらよいです。


なぜなら、現在阿弥陀仏の本願を聞こうという気持ちにすでになっておられるからです。そうでなければ、このように質問されることはありません。


「求道心を焚き付けて聞く」必要があると思われるのは、現在救われないのは「求道心が少ない」と考えられているからではないでしょうか?


そのような心配は間違っています。なぜなら、阿弥陀仏の本願は「求道心がある者を救う」という本願ではないからです。


歎異抄第3条から紹介します。

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄第3条・浄土真宗聖典(註釈版)P834)

http://goo.gl/ZiOzP

ここで「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意」といわれています。阿弥陀仏が本願を建てられた御心は、煩悩具足の私ではどんな行をしようとも生死を離れることができないことをあわれに思われたからだと書いてあります。


煩悩具足の凡夫とは、質問にあるような「求道心」がないものです。あるとしても、それを焚き付けて救いの足しにしようというのは「自力作善の人」ですから「ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と言われます。


阿弥陀仏は、私をたのめと呼びかけられています。「求道心をおこして向かってこい」ではありません。
「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」とは、「求道心を焚き付けねば」という心を捨てて、他力にうちまかせればということです。阿弥陀仏の仰せの通りに、弥陀をたのむ人は、「真実報土の往生をとぐるなり」報土往生できます。


阿弥陀仏の本願は、ただ今救うの本願です。ただ今救うと言うことは、心配するな、いろいろと考える計らいは捨てて聞けとの仰せです。ただ今救う本願の通りに、ただ今救われて下さい。

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃)の話を聞くと、これは「本願力にあった人」「信心決定した人」のことであって、自分はそうではないと思うと心が暗くなってしまいます。(頂いた質問)

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃)の話を聞くと、これは「本願力にあった人」「信心決定した人」のことであって、自分はそうではないと思うと心が暗くなってしまいます。(頂いた質問)

上記の質問にでてきたご和讃は、以下のものです。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P580)
【現代語訳】
本願のおはたらきにおあいすれば、空しく一生を終える人もなく、宝の海のような功徳が身に満ちて、濁った水のような煩悩も阿弥陀仏の救いの障げになることはない。

http://goo.gl/8wFvv

お尋ねのように「本願力にあひぬれば」だから、まだあっていない自分には関係のない話だと思ってはいけません。なぜなら、本願力は現在私に働いていて下さるからです。

「救われたらこうなる」というところにばかり目が行くと、現在働いて下さっている本願力に目がいかなくなってしまいます。確かに、結果として「空しくすぐるひと」になりたくないという気持ちはよく分かります。結果ばかりに目を向けると、本願力も遠くに追いやってしまいます。

ただ今救うと呼びかけ働いてくださっているのが本願力、南無阿弥陀仏ですから、ただいま本願力にあって救われて下さい。

「教えを聞いて救われるのですから、誰から聞いても同じという訳ではないと思いますがいかがでしょうか?」(頂いた質問)

教えを聞いて救われるのですから、誰から聞いても同じという訳ではないと思いますがいかがでしょうか?(頂いた質問)


確かに、親鸞聖人の教えられたことと違うことをいう人の話を聞くことは百害あって一理もありません。(一理もないは造語です)


しかし、正しく説かれる人から聞いたとしても、その人から聞いて救われるのではありません。


御一代記聞書に蓮如上人は、法敬房に以下のように問われています。

一 蓮如上人、法敬に対せられ仰せられ候ふ。いまこの弥陀をたのめといふことを御教へ候ふ人をしりたるかと仰せられ候ふ。順誓、存ぜずと申され候ふ。(御一代記聞書76・浄土真宗聖典(註釈版)P1256 )

http://goo.gl/9wK4d

蓮如上人は「いまこの弥陀をたのめということを教える人を知っているか?」と、法敬房に尋ねられました。それに対して、法敬房は「わかりません」と答えました。


それに対する蓮如上人の答えは、以下のものです。

(略)
蓮如上人仰せられ候ふ。このことををしふる人は阿弥陀如来にて候ふ。阿弥陀如来のわれをたのめとの御をしへにて候ふよし仰せられ候ふ。(御一代記聞書76・浄土真宗聖典(註釈版)P1256 )

http://goo.gl/9wK4d

「弥陀をたのめと教える人は阿弥陀如来である。阿弥陀如来が『われをたのめ』と教えてくださったのだ」ということです。


阿弥陀仏の仰せである「阿弥陀仏をたのめ」を聞いたのが信心です。知識の勧めを聞いたのが信心ではありません。

阿弥陀仏のただ今救う、ただ今われをたのめの仰せをそのまま聞いて救われて下さい。

阿弥陀仏に救われた人は浄土往生が確信できるか?について考える(サイクロンさんのコメントより)

コメント欄のやりとりからご提案をいただき、標題の内容についてエントリーを書きました。

一ヶ月ごとに教義が変わる高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会会長)3月座談会と、4月22日座談会で無碍の一道の説明が変わった件 - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄で、すでに議論がなされている部分について、コメントを引用してまとめてみました。内容をわかりやすくするために、標題に関係あるところのみを抜粋し、それ以外の部分はこちらで省略しました。理由は、なるべくコンパクトにするためです。

以下引用

サイクロン 2012/05/08 12:15
浄土往生が確信されていないことを、「行き先が分からない飛行機のようになぜ生きるかがわかからないこと」と例えているのであれば、話の筋は通っているように思いますが。
浄土往生が確信されていないということは、最悪、地獄に堕ちる可能性があるという意味では、後生は間違いなく一大事ではありませんか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336446951

サイクロンさんは、ご自分で

サイクロン 2012/05/09 17:33
(略)
私は信心をいただいている者です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336552439

と言われています。


サイクロン 2012/05/08 12:15の発言は、標題からいうと、「阿弥陀仏に救われた=浄土往生が確信されている=信心」という意味になります。

なぜそうなるのかについては、ハリケーンさんのコメントで説明されている通りです。

ハリケーン 2012/05/11 02:46
(略)
>浄土往生が確信されていないということは、最悪、地獄に堕ちる可能性があるという意味

浄土往生が確信されている、確信されていない、で信心を定義していますよね。
「浄土往生が確信された(=救われた)ならば、地獄に堕ちる可能性がない」という意味ですよね。

そうでなければ、あのコメントは無意味でした、と認めたことになります。行き先がわかるということをしきりに主張していたのですからね。

そうでなければ、あのコメントは無意味でした、と認めたことになります。行き先がわかるということをしきりに主張していたのですからね。

16.獲信したら三世がはっきりするのか
親鸞聖人 浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

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サイクロン氏 地獄一定と極楽一定の自己がはっきり知らされる

親鸞会に入ると、嘘をつくことに罪の意識は全くなくなることの実例です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336672001

ここで、「浄土往生の確信の有無」が問題になります。別の言い方をすると、阿弥陀仏に救われたら浄土往生の確信があるのか、ないのかということです。


これについては、以前の議論でも、今回のコメント欄でも、執持鈔のお言葉が根拠となります。私も同意見なので、以下ハリケーンさんのコメントより

ハリケーン 2012/05/11 03:18
救われています。
執持鈔を否定する貴方には分からないでしょうが、


往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。


こういうことです。信前には阿弥陀仏に死後の行き先をまかせていません。信後は阿弥陀仏に死後の行き先をまかせています。
(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336673891

ハリケーン 2012/05/11 03:38
(略)
執持鈔からいえることは、

他力の信心とは

・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

であり、

・源空があらんところへゆかんとおもはるべし
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

なのです。
簡単に言えば、

死後行くところもすべて阿弥陀仏にお任せしている

であり、我々と親鸞聖人との関係でいえば、

親鸞聖人の行かれる所へ一緒に行くだけ

ということです。これが分からない人は信心が親鸞聖人と異なるということですね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336675119

これに対するサイクロンさんのコメント

サイクロン 2012/05/12 01:11
(略)
ハリケーンさん

>死後の世界については何もわからない、曖昧なのですよ。

親鸞聖人の御言葉

●真実信心うるひとは
 すなわち定聚のかずにいる
 不退の位にいりぬれば
 かならず滅度にいたらしむ
(浄土和讃)

信心決定したなら、死後かならず浄土に生まれると仰有られています。

>死後行くところもすべて阿弥陀仏にお任せしているであり、我々と親鸞聖人との関係でいえば、 親鸞聖人の行かれる所へ一緒に行くだけと

親鸞聖人の御言葉

●我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
(御臨末の御言葉)

その親鸞聖人は、浄土にいかれると仰有られていますが、貴方自身にはそれが知らされないのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336752672

これに対するハリケーンさんのコメント

ハリケーン 2012/05/12 04:40
(略)
では根拠に基づいて説明しましょう。

『高僧和讃』曇鸞讃に

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき

また法然讃に

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり

とありますね。
曇鸞大師には遇われたこともないのに、法然上人の臨終に立ちあわれたのでもないのに、なぜ浄土往生されたと断言されたのでしょうか。
それは、信心を獲ておられることを信じておられ、経典そして高僧方の教えを信じておられたから、理屈でそのように断言されたのですね。
これは御自身のことでも同じです。貴方は徹底的に執持鈔を排除されますが、地獄も浄土も、凡夫に分かる訳がないのです。分からないが、経典と高僧方の仰せ信じているから、自分も阿弥陀仏にお任せした以上、浄土に往くに違いない、と信じるに過ぎないのです。

まとめましょう。

自力・・・自分で浄土に往ける地獄に堕ちると決めつける
他力・・・阿弥陀仏にすべてお任せ(経典・お聖教の通りに師と共に往生できると信じている)
異安心・・・浄土が分かってその浄土に往けるチケット(信心)を持っている

こういうことですよ。
ちなみに、仏法に遇えなかったらどうなるかについて、執持鈔での親鸞聖人のお言葉は、地獄、悪道、六道とぶれているのです。死後のことは、何もわからないから、経典に当てはめて地獄だろうな、三悪道だろうな、一般論として六道だな、という程度です。
地獄一定などとはっきりする訳ないです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336765254

加えて、春の嵐さんからサイクロンさんへの質問

春の嵐 2012/05/12 05:22
サイクロンさん

ものすごく基本的な事を聞きます。答えてくださいね。

サイクロンさんの側から「浄土に往くと、ハッキリしているのですか」

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120507/1336331810#c1336767758

阿弥陀仏に救われたら、浄土往生の確信があるのかないのか、については、私は「ない」という立場です。根拠は、上記に引用したハリケーンさんのコメントと同じです。

そこで、あらためてサイクロンさんにお尋ねします。春の嵐さんのコメントにある通りですが「サイクロンさんの側から浄土に往くと、ハッキリしているのですか?」

私見ですが、どうもそれをもって、サイクロンさんは「信心を頂いている者です」といわれているように思います。(違っていたらすみません)

このエントリーのコメントについては、「浄土に往くと、ハッキリしている」の有無についてでお願いします。また、ハンドルネームは、一人につき一つで固定して下さい。一人で複数変えたと私が判断したものに関しては削除しますのでよろしくお願いします。