安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃)の話を聞くと、これは「本願力にあった人」「信心決定した人」のことであって、自分はそうではないと思うと心が暗くなってしまいます。(頂いた質問)

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃)の話を聞くと、これは「本願力にあった人」「信心決定した人」のことであって、自分はそうではないと思うと心が暗くなってしまいます。(頂いた質問)

上記の質問にでてきたご和讃は、以下のものです。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P580)
【現代語訳】
本願のおはたらきにおあいすれば、空しく一生を終える人もなく、宝の海のような功徳が身に満ちて、濁った水のような煩悩も阿弥陀仏の救いの障げになることはない。

http://goo.gl/8wFvv

お尋ねのように「本願力にあひぬれば」だから、まだあっていない自分には関係のない話だと思ってはいけません。なぜなら、本願力は現在私に働いていて下さるからです。

「救われたらこうなる」というところにばかり目が行くと、現在働いて下さっている本願力に目がいかなくなってしまいます。確かに、結果として「空しくすぐるひと」になりたくないという気持ちはよく分かります。結果ばかりに目を向けると、本願力も遠くに追いやってしまいます。

ただ今救うと呼びかけ働いてくださっているのが本願力、南無阿弥陀仏ですから、ただいま本願力にあって救われて下さい。