安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀如来の救いには何事も妨げはないということですが、つまり救われるために何をしても意味はないということでどれだけ獲信したくても方法はないということでしょうか?」(獲信したい人さんのコメント)

獲信したい人 2024-04-22 17:28:17
阿弥陀如来の救いには何事も妨げはないということですが、つまり救われるために何をしても意味はないということでどれだけ獲信したくても方法はないということでしょうか?

阿弥陀仏の救いは、文字通り「救われる」「助けられる」というものです。
阿弥陀仏に助けられるのですから、私が何かをしたから助かったのではありません。

阿弥陀仏から私へという救いの手はありますが、私から阿弥陀仏へという助かる手立てはありません。そういう意味では一方通行の救いです。

お尋ねにあるように「救われるために何をしても意味はない」という「意味」が「より救いに有利になるという効果」という意味でしたら、そんな効果はありません。

私が獲信していないのは、「方法を知らない」からではありません。「方法があると思っている」からです。


「何かあるはず」という手元の希望に目が行くと、南無阿弥陀仏が如実に聞こえてきません。「自分が知らないだけで本当は何か方法があるはず」というのも計らいですし、「こういう手順で助かる」というのも自力です。
それらは「なげすてて」と御文章に蓮如上人は書かれています。

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(御文章5帖目10通)

阿弥陀仏の方から南無阿弥陀仏と、名乗られ呼びかけらています。それ以外の何かは救いの足しになるものは何もありません。
私のはからいは脆いものです、確かそうでも実態はありません。それらは全て投げ捨てて、一心に弥陀に帰命してください。

帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。(尊号真像銘文【六】)

阿弥陀仏の帰せよの勅命にしたがう一つです。