安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

こんな私が仏教聞くのも全て阿弥陀様の働きによるのでしょうが、自分の心に少ししか無い求道心を焚き付けて聞くのが良いのでしょうか?(頂いた質問)

こんな私が仏教聞くのも全て阿弥陀様の働きによるのでしょうが、自分の心に少ししか無い求道心を焚き付けて聞くのが良いのでしょうか?(頂いた質問)

結論から言いますと、「求道心を焚きつけて聞く」必要はありません。本願をそのまま聞かれたらよいです。


なぜなら、現在阿弥陀仏の本願を聞こうという気持ちにすでになっておられるからです。そうでなければ、このように質問されることはありません。


「求道心を焚き付けて聞く」必要があると思われるのは、現在救われないのは「求道心が少ない」と考えられているからではないでしょうか?


そのような心配は間違っています。なぜなら、阿弥陀仏の本願は「求道心がある者を救う」という本願ではないからです。


歎異抄第3条から紹介します。

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄第3条・浄土真宗聖典(註釈版)P834)

http://goo.gl/ZiOzP

ここで「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意」といわれています。阿弥陀仏が本願を建てられた御心は、煩悩具足の私ではどんな行をしようとも生死を離れることができないことをあわれに思われたからだと書いてあります。


煩悩具足の凡夫とは、質問にあるような「求道心」がないものです。あるとしても、それを焚き付けて救いの足しにしようというのは「自力作善の人」ですから「ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と言われます。


阿弥陀仏は、私をたのめと呼びかけられています。「求道心をおこして向かってこい」ではありません。
「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」とは、「求道心を焚き付けねば」という心を捨てて、他力にうちまかせればということです。阿弥陀仏の仰せの通りに、弥陀をたのむ人は、「真実報土の往生をとぐるなり」報土往生できます。


阿弥陀仏の本願は、ただ今救うの本願です。ただ今救うと言うことは、心配するな、いろいろと考える計らいは捨てて聞けとの仰せです。ただ今救う本願の通りに、ただ今救われて下さい。