安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「名号とは「与えて下さる法」ということである。即ちこの私に渡し与えて下さる法である。ここで一つ注意しておかねばならないことは、「与えるから受け取れ」というのではなく、「与える」という以外にはないのである。(加茂仰順師「親鸞教学研究P141)この部分の意味がよく分かりませんので教えてください(頂いた質問)

「名号とは「与えて下さる法」ということである。即ちこの私に渡し与えて下さる法である。ここで一つ注意しておかねばならないことは、「与えるから受け取れ」というのではなく、「与える」という以外にはないのである。(加茂仰順師「親鸞教学研究P141)この部分の意味がよく分かりませんので教えてください(頂いた質問)

お尋ねの文章には、以下のブログが引用されていました。
廻向ー21世紀の浄土真宗を考える会

以下ブログより引用

加茂仰順師の『親鸞教学研究』141頁より
「一念多念証文」には「廻向とは本願の名号をもて、十方の衆生に与え給うみのりなり」と釈されてある。ひらたく言えば「下さる」ということである。
 それ故に、名号とは「与えて下さる法」ということである。即ちこの私に渡し与えて下さる法である。
 ここで一つ注意しておかねばならないことは、「与えるから受け取れ」というのではなく、「与える」という以外にはないのである。なぜならば、私どもには受け取る力さえないからである。これは何でもないことのようであるが、このことは大切なことがらである。このことが聞こえてないと、もらうことにのみ骨折ることになって、法義の方向を誤ってゆくことになる。
 要するに如来の廻向は「与えるぞ」の一点張りである。しかもその「与えるぞ」とは、「摂取するぞ」ということである。だから他力廻向とは摂取廻向の意味である。

この文中に出てくる一念多念証文は、本願成就文の「至心回向」の「回向」について親鸞聖人が書かれたものです。

「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典註釈版P678

阿弥陀仏は、至心を本願の名号で与えると言われています。
私はそれを聞くと「与える」と言われるからには、「それをどうやったら受け取れるだろうか」と考えていまいます。

そうやって「どうやったら受け取れるか」ばかりに心が向いてしまい、「与えるぞ」ということが頭からすっかり抜けてしまうと間違ってしまいます。

なぜならば、「阿弥陀如来の御こころ」は私の方から見ると目にも見えず、耳にも聞こえないものだからです。それを本願の名号となって私によびかけておられるのですが、どうしても「呼びかける声の主」や「呼びかける内容とは何なのか」と本来はすべて南無阿弥陀仏となって下さっているのに、「その先」をこちらで想像して、「その先」を受け取ろうとするからです。


「与えるぞ」という言葉に対応する「与えるモノ」がないのが、南無阿弥陀仏の回向です。それは「与えるぞ」が、敢えて言えば「与えるモノ」だからです。「与えるぞ」以外に、阿弥陀仏が私に回向されているものは有りません。
上記の文章から言えば「与えるぞ」はそのまま「摂取するぞ」であり、「助けるぞ」という事です。


「ただ今助ける」と聞いても、「助ける方法」や「助けられた先はどんなところか」「助かったとはどういう事か」とあれこれ考えるのは人間の考えの仕組み上そうなりやすい所です。


本来私には分からないことを、勝手に想定しても、それは「私の思ったもの」は本来ないモノです。つまり「ないモノ」を受け取ろう、聞こうとしてもそれは絶対に受け取れませんし、聞けません。自力を捨てよと言うのは、そのように「ないモノを勝手に考え、受け取ろうとする」のを捨てよと言う事です。

南無阿弥陀仏を聞いたなら、聞いた通りに思えと親鸞聖人は言われています。

摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)

よく「そのまま聞く」とか「真受けにする」と言われるのは、南無阿弥陀仏以外に「その先」「それ以外」を勝手に作って探さないと言う事です。聞いている側から言えば、当然想定する「聞くべきモノ」を捨てよと言う事です。


聞けと言われるのは本願の名号であり、南無阿弥陀仏です。聞思して遅慮することなかれと言われる通りに、私の考えた何かを探すのではなく、南無阿弥陀仏を聞いてください。

お知らせ

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