安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑いをなくさないと信心は得られないと聞いているので、なんとか疑いを晴らそうと頑張っているのですがなかなか信をえられません。どうしたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

疑いをなくさないと信心は得られないと聞いているので、なんとか疑いを晴らそうと頑張っているのですがなかなか信をえられません。どうしたらいいのでしょうか?(頂いた質問)

疑いを無くしてから、信を獲るという考え方は間違いです。
信心とは、本願を聞いて疑心あることないことです。しかし、疑いがなくなった者に阿弥陀仏が信心を与えて下さるという考えは間違いです。

言い換えますと、無疑心のものに南無阿弥陀仏を与えるとは親鸞聖人はいわれていません。無信の者に南無阿弥陀仏を与えると言われています。

「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典(註釈版)P711)

http://goo.gl/57CJ1

ここでは「邪見無信のものにあたへたまへる」と言われています。阿弥陀仏は、邪見無信のものに法(名号)を与えると言われています。

私が南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂くときは、「邪見無信」の者なのです。「邪見無信」のままで南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜るということです。

確かに、信心決定するということは、無疑心であってまた正見の者になるということですが、これはあくまで法の徳、南無阿弥陀仏の徳としていわれていることです。私自身の本来の相から言えば、「邪見無信」という相は死ぬまで変わりません。

「邪見無信」の者に法を与えるということは、「邪見無信」のまま助けるということです。私の方でいえば、助かる身に救って下さるということです。

疑いを除かないことには阿弥陀仏は助けて下さらないと思わずに、そのまま救うという本願を、ただ今聞いて救われて下さい。「疑いを無くしてから」と疑いと格闘しても、出口はありません。

別件ですが、アンテナに以下のブログを追加しました。
お慈悲のままに