安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願をそのまま聞く」ために「私の計らいを差し挟まない」ことを勧められたように受け取めました。計らいは真実信にとって邪魔ですか。また段々計らわなくなれるのでしょうか。(ティーちゃんさんのコメントより)

追記:無根の信について…「阿弥陀仏はただ今救うといわれていますが、私はただ今救われようという気持ちがなかなか起きません」(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄が長くなったので、コメント欄をエントリーにまとめて、あらためて私からのコメントを書きます。

ティーちゃん 2012/07/20 15:19
ただ今助かろうという心をもとより持たないと仰る者に、ただ今聞けと勧めておられますが、矛盾していませんか?



YGM 2012/07/20 16:37
ただ今助かろうという心をもとより持たないと仰る者に、聞こえますから、お伝えされているのでしょう。

それでも助けようという大悲心を教えてもらって、自分を反省し、かたじけないと思うならまだしも、
『矛盾していませんか?』とはひねくれてませんか?


yamamoya 2012/07/20 16:56
ティーちゃんさん

ただ今聞けというのは、ただ今救われて下さいということです。
助かろうという心がない者にむけて、ただ今救うとよびかけられる本願ですから、本願の通りに救われて下さいと言っています。矛盾はしていないです。


たかぼー 2012/07/20 18:17
「助かろうという気のない者」に対して「必ず、救う」と仰る阿弥陀様だから、その願心を伝える側はそのとおりに伝えるしかないのだな。その説かれる阿弥陀様の願心を聞くのも縁、それに反発して謗るのもその人の持っている縁だから、伝える側としては不憫と思えどもどうすることもできないのだ。ただ、質問する側はもっと真摯な質問をしてほしいと思う。「ただ今聞け」とはどういうことかまったく分かっていないのだから、それはどういうことか、もっと突っ込んだ質問をしてほしい。そうすれば、伝える管理人さん側も力が入るようになりますよ。それが「信心の沙汰」です。もっともっと信心の沙汰をしましょう。真宗の繁盛はこの信心の沙汰にあるのですから。


ティーちゃん 2012/07/20 23:34
yamamoya様
それはすなわち「阿弥陀仏の本願間違いないですよ」の呼びかけであって、件の人にどうしろと言っているのではないでしょ。強いていうなら「信じろ」ですか。でも本人は「助かろうという心がない」と言っている、つまり信じられないと言っているのだから、意味があるんでしょうか?

YGMさん、たかぼーさん
バカにバカと言っても効きませんよ。
野次比べなら受けても立ちますが、それがこのタイトルの質問者の問題解決に役立つとは思えないですね。


とくよしみね 2012/07/21 01:42
私は、馬鹿でした。
お前は、馬鹿だよと言われても否定ばかりしていました。
結局馬鹿だ、馬鹿だと言われ続けて、そうか、馬鹿なのかと気づかされました。
馬鹿は、なかなか馬鹿を認めません。
それでも、言い続けないと馬鹿に気が付きません。
お前は、馬鹿だよ。
それだけです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

追伸:「馬鹿」を「石瓦つぶて」と読み替えても結構です。


GTO 2012/07/21 05:46
「ただ今聞け」とはどういうことでしょうか?
ただ今聞けというのは、ただ今救われてくださいということです。というのは、トートロジーであり、説明にはなっていないと思います。
聞く一つで救われる教えと言われます。
是非そこを納得いくまで聞かせていただきたく思います。


yamamoya 2012/07/21 07:45
ティーちゃんさん

私に助かろうという心がないのですが、どうしたらいいですか?という相談に対しては、助ける本願がありますよと伝える以外にはありません。
そんなことで、その人がやる気になるのか?ならないのなら意味がないというご意見かもしれません。しかし、私はやる気になってもらいたくて言っているのではありません。阿弥陀仏の本願はただいま救う本願ですよと伝え、その人が阿弥陀仏に救われることを念じています。


yamamoya 2012/07/21 07:53
GTOさん

ただ今聞けも、ただ今救われてくださいも、阿弥陀仏がすでに呼びかけられているのを前提として書いています。
南無阿弥陀仏とただ今よびかけられています。それをそのまま聞いたのが、信心であり救いです。
どうしたら救われますかの問いは、阿弥陀仏が呼びかけられていない前提があります。救いの手はすでに差し伸べられているのですから、そこにさらに方法を論じる必要はありません。その手にすがれとしか言いません。
南無阿弥陀仏は声ですから、ただ今聞いて下さいとしかいいません。
答えになったでしょうか?


GTO 2012/07/21 13:58
yamamoya 様

ただ今聞け=ただ今救われてください=その手にすがれ
というご回答ということなら申し訳ありませんが、やはり説明にはなっていないと思います。
では、「その手」とはどの手でしょうか?
私のような泥凡夫には、自分に差しのべられている救いの手など見えません。
ですから、すがりようがありません。


ティーちゃん 2012/07/21 15:18
yamamoya様
「私に助かろうという心がないのですが、どうしたらいいですか?という相談」
分かりやすくして頂きました。

「どうしたらいい」は「どうにかなりたい」のですからすでにやる気はあるということですが、
それは煩悩に過ぎないので、その心にいくら自分で接ぎ木しても「ただ今助かりたい」とはならず、
根拠に挙げられた

「栴檀」といふは、衆生の念仏の心に喩ふ

といわれる心こそ、阿弥陀仏から賜る「ただ今」の心だと、バカにも分からせて頂きました。
どうも有難うございました。


たかぼー 2012/07/21 15:21
さてさて信心の沙汰らしくなってきましたね。お尋ねになっている「その手」とは阿弥陀仏の願心(=18願の「摂取不捨」の仰せ)のことです。管理人さん側は「そのまま救うが阿弥陀仏の願心であり、この願心をそのまま頂くの信。」「だからその願心をそのまま今聞いて下さい。」と伝える。これが分からないという人があればそれはその人の心中(=不信)を正直に告白されたものです。つまり、この阿弥陀仏の仰せが「私に向けられている摂取不捨の願心である」と分かるのが信(信解)、分からぬのが不信。これが決定的な分かれ目になっているということがよく理解されます。因みに「救いの手」で思い出すのは唯信抄の一段ですね。「ひく人の力を疑い、綱の弱からんことを危ぶみて手をおさめれて綱をとらずば、さらに岸の上にのぼること得べからず」と不信を戒めている一段がありますね。この一段でいう綱とは18願の阿弥陀仏の仏智の不思議(=願心)のことですが、この願心が救いの綱(=救いの手)であると見えてない(不信)のでしょう。だから、すがりようがない、というのはまさにそのとおりなのですね。よく分かります。信心の沙汰はどこまで行っても平行線になりそうなのですが、そういう人でも信解してしまうときがあるので、仏智不思議なんですね。さて質問です。願心にすがりようがないというのであればどうするおつもりなのですか。

ティーちゃん様へ
私は「バカにバカ」なんて言っていませんよ。また、ヤジ比べする気もさらさらありません。誤解なきようにお願いします。


たかぼー 2012/07/21 15:31
ティーちゃん様へ
書込みの時間差で私の書込みが後になってしまいましたが、「栴檀」が無根の信と理解なされて良かったです。自力を離れたるすがたが無根の信が生じたすがたであり、念仏する心です。


yamamoya 2012/07/21 23:04
GTOさん

その手と言ったのは、阿弥陀仏の救いの手です。確かに、凡夫の目には阿弥陀仏の手どころかお姿も見ることができません。そこで、南無阿弥陀仏となって私に称えられる形で、手を差し伸べられています。


GTO 2012/07/21 23:43
ということは南無阿弥陀仏にすがれという理解でよろしいですね。
それでは南無阿弥陀仏にすがるとはどういうことでしょうか?
ただ口で唱えることではないですよね。


yamamoya 2012/07/22 08:53
GTOさん

南無阿弥陀仏にすがるとは、助けるの仰せを、そのまま聞くことです。ただ今助けると呼びかけられる阿弥陀仏は、助けるぞと手をこちらに差し出されているのです。その仰せに従うことを、阿弥陀仏にすがると書きました。こちらからお願いしますとすがるのではありません。阿弥陀仏にまかせるということです。

念仏を称えるのも、南無阿弥陀仏がそのように私を救うお働きだと疑いなく聞いて称えるものです。


GTO 2012/07/22 10:05
そのまま聞くと簡単に言われますが、そのままとは、どのままでしょう?
どうなったのが「そのまま」なのでしょう。
このように普通に考えれば、疑問しか出ない内容です。
それを疑いなく聞くというのは、思考停止して聞けと、どこかの宗教団体が言いそうな発言に受け取れます。


yamamoya 2012/07/22 17:40
GTOさん

そのままとは、そのままであって、私の計らいを差し挟まないということです。
思考停止とは違います。思考停止は、考えないように努力した結果です。そのまま聞くと、ストレスになることを考えないようにしているだけです。
本願は、私の計らいを差し挟まない真実ですから、凡夫の考えによらないで、お助けを聞くということです。


GTO 2012/07/22 18:13
私の計らいを差し挟まないとはどういうことか?
と結局は疑問が出るのですが、それは凡夫の考えだから止めよというなら、それは思考停止ではないのか、ということです。
思考停止を考えないようにした結果と、結果論で解釈されていますが、私は考えないようにすること自体を言っているのです。


サラ 2012/07/22 19:36
先徳は「骨折って聞け」と。
無耳人が知れるといいですね。
ティーちゃん 2012/07/22 20:24
またまた疑心がムクムクと出ましたので悪しからず。
「私の計らいを差し挟まない」とか「凡夫の考えによらない」とか、
まるで「自分の力で何とかなる」かのように誤解しそうなお言葉が重なりました。私も是非お聞きしたい。
そのままとは、どのままですか?


幹部会員歴数十年 2012/07/22 21:36
サラさん

御無沙汰しています。無耳人の意味が違っていますよ。


yamamoya 2012/07/23 05:34
GTOさん

考えないようにすることが、私の計らいを差し挟まないということにはなりません。なぜなら、「考えないようにする」間しか信心が相続しないということに成ってしまうからです。本願を聞けば、私の計らいはそこに差し挟む余地はありません。

ティーちゃんさん

そのままとは、本願をそのまま聞くという意味です。私の側での、造作を加えないという意味でのそのままと言っています。「ただ今救う」の本願に付け足したり、引いたりもしないということです。ただ今救うと聞いたら、ただ今救われるというのが、そのままと言うことです。


ティーちゃん 2012/07/23 07:35
yamamoya様
「本願をそのまま聞く」ために「私の計らいを差し挟まない」ことを勧められたように受け取めました。計らいは真実信にとって邪魔ですか。また段々計らわなくなれるのでしょうか。


YGM 2012/07/23 09:51
ティーちゃんさん

計らいは邪魔です。真実信にまかせれば安心ですが、それを計らえば不安でありましょう。正しい計らいができるようになるのではありません。
私の場合は、気付いたらいつの間にやら計らわれなくなっておりましたが、そうでない人もいるのかもしれません。

ティーちゃんさんへ

本願を計らっているあいだは、それを真実信心とはいいません。なぜなら、

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P234)

http://goo.gl/vKodm

と言われているからです。

真実信心のことを、信楽ともいいますが、それを「疑蓋間雑あることなし」と言われています。
信楽は基本的に「如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」でありますから、阿弥陀如来の心です。阿弥陀如来が、必ず私を浄土の往生させることに全くさわりがないことを信楽といいます。


ですから、その阿弥陀如来の信楽に計らいを差し挟めば、信楽とはなりません。如来のお仕事に手を出せば、全く邪魔になると言うことです。

もう一つの「段々計らわなくなれるのでしょうか?」については、段々という段階的なものではありません。計らいを入れるか、入れないかというゼロか一かの違いのようにそこは全くことなるものです。

阿弥陀如来の本願の仰せは「本願招喚の勅命」といわれ「汝一心正念にして直ちに来たれ」といわれています。それをそのまま聞くと言うことは、「段々計らいがなくなる」というものではありません。直ちに仰せを聞いたのが信心といいます。