安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

スッキリハッキリするのが信心だと思っていましたが、違うのでしょうか?(頂いた質問)

スッキリハッキリするのが信心だと思っていましたが、違うのでしょうか?(頂いた質問)

同様な趣旨で「蓋有る水に月は宿らずといわれるから、疑いの蓋が取れたらきれいな月が見えるのでしょうか?」と質問される方もあります。

これは、阿弥陀仏に救われた、信心決定した、疑情が晴れたということを、なにか覚りのようなものだと誤解しているところからくる疑問です。

「お前を必ずただ今助ける」という本願を聞いて疑い無いということは、本願に疑い無いということであって、それ以外になにか悟ったがごとくわかる智恵が身についたわけではありません。また、「阿弥陀仏」がお釈迦さまのように分かるようになったわけでもありません。阿弥陀仏がそのままわかるようなのが凡夫ならば、南無阿弥陀仏となられた道理はありません。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。(教行信証行巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P180)

http://goo.gl/KvFRu

阿弥陀仏の本願は、名号をもって私を救って下さいます。なぜなら、私が仏を知る智恵を持ち合わせていないからです。

また、阿弥陀仏がそのまま分かるようになるとすれば、阿弥陀仏の浄土も分かるようになってしまいます。しかし、浄土は仏にしかわからないものと、ご和讃に言われています。

(12)
安養浄土の荘厳は
 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして
 広大にして辺際なし(浄土和讃・天親讃)

「唯仏与仏の知見」であって、大きさが虚空といわれても、ほとりもきわもない浄土は人間にはとてもわかりません。

スッキリハッキリするというのが、阿弥陀仏や浄土に対する不明点が明瞭に分かるという意味で使う人がありますが、それは間違いです。阿弥陀仏や浄土は凡夫にはわかりません。しかし、「ただ今救う」という本願をそのまま聞いて疑い無いのが信心です。

「ただ今救う」以外の何かも分かろうとすれば、出口のない迷路に入るような者です。なぜなら、ただ今救う以外にはなにも理解は出来ないのが凡夫だからです。ただ今救う本願をただ今聞いて救われて下さい。

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追記:疑心往生についてのコメントまとめ - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

用管窺天記さんのエントリーにも関連したことを書かれていたので、紹介します。
疑情 « 用管窺天記
疑ひながらも、念仏すれば、往生す « 用管窺天記