安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の召喚の勅命をハイと受け入れた時が信心だと聞いておりましたが

信の一念は凡夫には自覚できないとも聞いています。ではハイと聞いたのは
いつの時点になるのでしょうか。」(トカゲさんのコメントより)

トカゲ 2012/07/07 16:23
阿弥陀仏の召喚の勅命をハイと受け入れた時が信心だと聞いておりましたが
信の一念は凡夫には自覚できないとも聞いています。ではハイと聞いたのは
いつの時点になるのでしょうか。

yamamoya 2012/07/07 20:53
トカゲさん

ハイときいたのはいつかといえば、「はいと聞いたとき」と答えるのが一番適当なのですが、同語反復のようで回答にならないと思います。
「ハイと聞いた」と分かるときはいつか?ということでしょうか?

トカゲ 2012/07/07 21:40
「信の一念に、自覚しないままでハイと聞いた」のかもしくは「自分は信心決定しているんだなと自覚したときにハイと聞いた」のかどちらかかということです。私は前者かなと思っていたの
ですが、自覚なしにハイと聞くということがあるのだろうかと疑問がでてきた次第です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120705/1341474416#c1341645796

「ハイと聞いた」というのが、トカゲさんのコメントの文面からすると、「信心決定した」「救われた」事実のことを言われているのだと思います。

その「とき」は、自覚ができるとかできないというものではありません。しかし、そのときが自覚できなくても、本願をつねに聞いて疑い無いのが信心ですから、救われた上ではいつでも「ハイと聞いている」ということになります。

信の一念から後に自覚の上で救われたということがありますから、「自覚なしにハイと聞く(信心決定)」ということはあります。ただ、死ぬまで自覚がないということはありません。(信一念の直後に命が終わるような場合はわかりませんが)

「ハイと返事をした」とか「ハイと自覚した」というこちら側のことではなく、本願が「お前をただ今救う」と本当に聞いていれば、それをハイと聞いたと言っているのです。反対に、「お前をただ今救う」本願を、「どうやって?」とか「どうなればいいのか?」と聞いているのは、本当の意味では聞いていないということになります。これを不如実の聞ともいいます。それに対して、ハイと聞いたことを如実の聞と言っています。

ただ今救うという本願は、ただの呼びかけではありません。実際に私を救う働きがある本願です。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻より・論註引文・浄土真宗聖典(註釈版)P198)

  • 願は力を成り立たせ、力は願にもとづいている。願は無駄に終ることはなく、力は目的なく空転することがない。果位の力と因位の願とが合致して、少しも食い違いがないから成就というのである
http://goo.gl/2vP3a

「願、徒然ならず、力、虚設ならず」の、本願であり、本願力であると如実に聞けば、それは「ハイと聞いた」ということになります。