安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

6月21日のエントリーと関係しますが、自分の心を見つめても煩悩しかありません。そうなると、ますます阿弥陀仏が働いて下さっているのだろうかと思います。(頂いた質問)

6月21日のエントリーと関係しますが、自分の心を見つめても煩悩しかありません。そうなると、ますます阿弥陀仏が働いて下さっているのだろうかと思います。(頂いた質問)

自分の心の中には確かに煩悩しかありません。だからこそ阿弥陀仏の大慈悲がかかるのです。しかし、その煩悩しかない私だからといって、阿弥陀仏のお働きを疑うというのは間違いです。

疑うべきではないことを疑うのは大変嘆かわしいことだと、親鸞聖人は教行信証信巻に、善導大師の般舟讃を引文されています。

光明師(善導)のいはく(般舟讃 七三三)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P260)

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衆生が疑ってはならないことを疑っているのが、嘆かわしいことだといわれています。浄土は「対面してあひ忤はず」といわれ、人と目の当たりに対面しているように浄土はあり、浄土と私を遮るものは本来ないのです。それにも関わらず、私の方で疑うべきでないことを疑っているのです。

「弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。」といわれています。
阿弥陀仏が救って下されるのか、どうかを論じる必要はないということです。

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって、私をただ今救うと呼びかけておられます。その本願力があるから私は救われるのですから、それを本当かどうかと疑ったり論じたりするものではありません。
本願を聞いて、ただ今救われて下さい。