安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分は信心決定したのだろうかと思うときもあるのですが、自分の心の中を探ってみても信心らしいものはありません。私は信心決定しているのでしょうか?(頂いた質問)

自分は信心決定したのだろうかと思うときもあるのですが、自分の心の中を探ってみても信心らしいものはありません。私は信心決定しているのでしょうか?(頂いた質問)

質問された方がどうかということは、私がわかることではありません。

しかし、信心は「心」という字があるからといって、自分の心の中に探しても何もでてはきません。それを浄土真宗では「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」と言っています。

どういう意味かというと、信心とは仏辺に仰ぐものであって、自分の心の中を探して出てくるものではないということです。ここで、仏辺というのは、阿弥陀仏の本願の事です。阿弥陀仏の本願の上に仰ぐのが信心です。本願の上に仰ぐというのは、別の言い方をすると、本願をそのまま聞くということです。そこで「勅命のほかに領解なし」という言葉もあります。本願招喚の勅命を聞いている以外に、信心というものはないという意味です。

仮に自分の心のなかを探ってみて、信心らしきものがあったとしてそれはいつまでも続くものではありません。その変わりに見えてくるものは煩悩しか有りません。
そこで「慈悲は罪悪機中に味わう」といいます。これは、阿弥陀仏のお慈悲は自分の罪悪煩悩の中に味わうということです。阿弥陀仏の大慈悲は、何によって起こされたかといえば、煩悩具足の私をあわれに思われたのです。ですから、私の煩悩を離れて阿弥陀仏のお慈悲というものはありません。
歎異抄第3条では

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば

といわれ、自分の煩悩の浅ましさを知るほど、それを助けて下さる阿弥陀仏の大慈悲が知らされるということです。

その阿弥陀如来の上に信心を見るということですから、自分の心の中に信心だけを探そうとしても何も見つかりません。
ただ今救うの、本願をただ今聞いて下さい。