安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信と疑の関係について「計らいとは疑蓋=疑情である、との理解でよろしいのですか?」(ティーちゃんさんのコメントより)

ティーちゃん 2012/07/24 05:44
(略)
計らいは「全く邪魔になる」と明解なお答えです。
煩悩は信楽の邪魔にならないことからすると、計らいは煩悩ではないことになります。
つまり、計らいとは疑蓋=疑情である、との理解でよろしいのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120723/1343034116#c1343076259

計らいとは、疑蓋、疑情と理解したらいいです。

そこで、信心と疑蓋(疑情)の関係について書きます。
親鸞聖人は、「」の反対語として「」という言葉を使われています。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P234)

http://goo.gl/vKodm

といわれているのは、信楽とは疑蓋が交わらないことであると示されています。言い換えますと、信心とは無疑心ということです。

つまり、救われたことを「信」といえば、「疑」は救われていないことをいいます。そこで「無疑心」とは、「救われていないことではないこと=救われていること」という意味です。


親鸞聖人以前は、信の反対語は不信とあらわしていましたが、親鸞聖人はの反対語をと表されて、信疑決判であきらかにされました。


ですから、「信か疑か」ということは、「救われているかいないか」であり、本願を「聞いているか、聞いていないか」ということです。何か特別に、「疑情」というものを想定して、それを探そうとしても出てこないのは、「疑情」「疑蓋」の言葉の意味を取り違えているからです。


本願をそのまま聞かない人は、必ず自らの計らいをそこに加えているので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。反対に、本願をそのまま聞く人は、自らの計らいをそこに差し挟まないので「無疑心」「疑蓋間雑あることなし」です。


救われない原因はどこかにあるはずという考えが丸々疑情であり疑蓋です。なぜなら、本願の名号を聞く以外になにか救いの道があると考えているからです。
本願の名号(行)をそのまま受け入れたことを信といい、それをあれこれ計らって受け入れないことを疑といいます。


従いまして、計らいは「全く邪魔になる」というのは、計らいがある状態を信とはいわないということです。
「ただ今救う」が本願の名号です。南無阿弥陀仏はその喚び声ですから、そのまま聞いて救われて下さい。