安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑情とはなにか2

GTO 2012/07/31 23:38
yamamoya さん

ご説明が全く理解できない訳ではないのですが、結局のところ疑情と煩悩は同じものなのでしょうか?
それとも異なるものなのでしょうか?

疑情=煩悩と初めに説明されたこととの論理矛盾が未だ解消されていないように受け取れるのは、私に理解力がないだけなのでしょうか。


たかぼー 2012/08/01 10:52
疑情と煩悩についての区別をことさらに問題とする理由は何なのでしょうか。学問的興味からのご質問なのでしょうか(某会では疑情と煩悩とは別であると説明していることとの関係で興味があるということでしょうか)。
それとも真宗(本願による救い)を理解する上で重要な意味があるのでしょうか。議論をする上で「問題の所在」(「問題とする理由」)が分かりません。


ティーちゃん 2012/08/01 12:03
yamamoya様
私の問いにはお答え頂けないのでしょうか。念のため再掲します。

阿弥陀仏の救いとは「救いをそのまま聞く」心を与えることではないのですか?
そしてそれは南無阿弥陀仏を称え念ずる者に与えられるのだとの理解は間違いですか?


GTO 2012/08/01 12:10
yamamoya さんは本願を聞き入れない原因を疑情であると説明されています。

真宗とは本願を聞く一つで救われる教えです。
その本願を聞けないという致命的な原因である疑情を問題にすることに何か特別な理由が必要でしょうか?
またそう言われるということは疑情以上に問題にすべきものがあるということでしょうか?


たかぼー 2012/08/01 14:44
1.真宗は本願を聞く一つで救われる教えです。また、その阿弥陀仏の救いとは「本願をそのまま聞いていること(=信楽=大信)」を信因とし大行たる南無阿弥陀仏を行因として浄土往生させて証果を開かせることです。

2.本願をそのまま聞く心(=大信)は阿弥陀仏の本願から生じるものです。祖師は大信は回向されると言われていますので、その心は阿弥陀仏から与えられる心といって良いと思いますが、本願をそのまま聞いているのが大信です。

3.大信は「南無阿弥陀仏を称え念ずる者」に与えられる、との言い方は誤弊を招く恐れなしとしません。前記の大信は大行たる南無阿弥陀仏とともに回向されていますが、救いを求めている人の称念する意業や口業とは無関係に回向されているものです。

4.疑情は自力(分別知を働かして本願を聞くこと)と同義語です。本願召喚の勅命を聞く上で自力は無用です。自力をまじえて本願を聞いている限り本願をそのまま聞いていることにはなりません。よって、自力を捨てろと言われますが、本願をそのまま聞くしか自力が廃ることはありません。この難こそが求めている人にとっては一番問題となるところですが、そのまま本願の勅命を聞けば、これほど得易い信心はありませんから、祖師は易行と言われ、蓮如聖人は心得安の安心と言われています。したがって、疑情以上に問題となるべきものは他にはありません。
 以上のとおり、大信は阿弥陀仏から与えられている信心であり、その信とは本願の勅命をそのまま聞いていることですから、本願をそのまま聞いてくださいという言い方しかできないのです。もちろん法義としてはさまざまな名目を立てて教えられていますが、それはすべて本願の勅命をそのまま聞くということに集約されてきます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120727/1343332558#c1343745494

長くなったので、エントリーにします。事情によりコメントが遅くなり申し訳ございませんでした。

疑情と煩悩はイコールか否かについてですが、疑情の語義によって変わります。
一般的に「疑」は煩悩のことです。
その疑とは、

『大乗義章』6には「疑とは境において不決猶予するをいふ」とあり、疑を猶予不定といわれる。「あれかこれか」という不定を場とする。(教育新潮社_浄土真宗用語大辞典より)

といわれています。

本願をあれこれと計らうことを疑情というといった場合は、GTOさんは上記の意味で理解をされているのではないかと思います。(違ってたらすみません)その意味では疑情=煩悩です。「ある事象に対してあれこれと決まらない精神作用」を疑とすればそうなります。実感としては、そのように思えますが親鸞聖人が「疑情」といわれる場合は、上記の意味も踏まえたうえで定義が異なります。それが以下にあげるものです。

もう一つの意味から言うと、疑情=「阿弥陀如来の法を受け付けない心」のことです。第18願を撥ね付けることです。

またそれにも二つの意味があります。
一つには、凡夫が本願力を受け付けないことを疑情といわれています。

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)

ここで「疑網」とか「遅慮」をいわれています。これが私のような凡夫で修行もしない人が、本願を信受しない場合です(正確に言えば19願、20願の行者も入りますが)。こう言った場合の疑情は、煩悩ではなく「本願を受け入れないこと」です。これも煩悩の一つといえるのですが、定義上分けています。

もう一つは、19願や20願の自力の信をもっているために、18願の信を受け入れないことです。

(61)
仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし(正像末和讃・誡疑讃)

(67)
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける(同上)

ほかにもいろいろとありますが、19願の行者、20願の行者は自らの行によって往生を願うので本願の名号をそのまま受け入れることがありません。

最初にあげた「猶予不定の心」だけを疑情とするのは、本願が私にむけてすでに働きかけて下さっているということを抜きにした話になってしまいます。GTOさんが「疑情以上に問題にすることがあるでしょうか?」と書かれたことに、そのように感じました。

次に、ティーちゃんさんのコメントについてです。

阿弥陀仏の救いとは「救いをそのまま聞く」心を与えることではないのですか?
そしてそれは南無阿弥陀仏を称え念ずる者に与えられるのだとの理解は間違いですか?(ティーちゃんさんのコメント)

阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏を与えて浄土に往生させる、仏に生まれさせるというものです。「救いをそのまま聞く心」というと、何か私が救われると素直な人間になるようですが、そうではありません。そのまま聞くというのは、本願の仰せに信順したことです。ただ今救うという仰せに従ったことです。

そして、何かを期待して念仏するのは自力の念仏です。本願の念仏は私を救うお働きであると、そのまま聞いて称えるのが他力の念仏です。
ティーちゃんさんが、「南無阿弥陀仏を称え念ずる者」と いわれるのが、何かを期待して念仏するという意味であるならば、それは間違いです。