安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑情とは何なのか?(ティーちゃんのコメントより)

ティーちゃん 2012/07/25 22:47

計らいとは、疑蓋、疑情と理解したらいいです。

何とも突き放されたようなお答えですが、私には理解が難しいからと思い遣られてのことでしょうか。
だとすれば単に「計らいは疑情である」と言うだけでは表せない難しい何かがあるかのようです。
それが何なのか、そのあとにありました。

「信か疑か」ということは、「救われているかいないか」であり、本願を「聞いているか、聞いていないか」ということです。何か特別に、「疑情」というものを想定して、それを探そうとしても出てこないのは、「疑情」「疑蓋」の言葉の意味を取り違えているからです。

煩悩の他に疑情というこころを想定するのは誤りだ、と述べておられます。
ならば、「計らい」という煩悩の作用を疑情と呼ぶのも誤りのはずです。
疑情は蒸発してしまいました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120724/1343118903#c1343224030

ティーちゃんさんへ
突き放したつもりはありません。
説明が二重になりわかりにくくなったことをお詫びいたします。

実際に「計らい」とは、「分別心」ともいわれ、私が阿弥陀如来の心をあれこれ「分別」(判定)する心をいいいます。仏さまの心を凡夫が判定することは本来出来ません。それを、あれこれ計らうことを「疑」といいます。また「分別心」ともいいます。
そういう意味で「計らいは疑情である」は、それ以外の意味はありません。それ以上に言い表せない難しい問題があるわけではありません。

ただ、疑情も分別心も煩悩のことだから、救われたらなくなるのだろう、ならば煩悩が減るのではないかと疑問を起こす人もあります。
確かに、煩悩は阿弥陀仏に救われたからといって減るものではありません。ならば、計らいとはなんなのか?と考えていく考えは、救われない要因を自らのなかに追求し、それさえなんとかなれば自分は救われるという考えになっていきます。そうなると阿弥陀仏の本願の方に目が向かなくなるので、あまり深く考えなくてもよいところだとお勧めしました。

阿弥陀仏と私の関係性において、「本願を聞かない」「仰せに従わない」状態を「計らい」と呼んだ方がわかりやすいのでそのように説明しました。「本願を聞かない状態の私」は、煩悩具足の凡夫ですから、煩悩のほかに疑情というものを考えてもなにもでてはきません。

一方で、

本願をそのまま聞かない人は、必ず自らの計らいをそこに加えているので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。

聞かない状態が疑でありながら、聞かない人は更にそこに、計らいを「加えている」のだという。
疑情が二重に現れました。
うーん、やっぱり私はバカですね。(テーちゃんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120724/1343118903#c1343224030

これは説明が不適切でした。
自らの計らいを加えて本願を聞いている人は、本願をそのまま聞かないので、その状態を「疑情」「疑蓋」といわれています。

説明がまだ足りないところもあると思いますので、またご指摘があれば教えて下さい。