安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「南無阿弥陀仏から逃げずに、南無阿弥陀仏に向き合いなさい」とのことですが、私は逃げているつもりはないのですが。。。また、「向き合う」という表現だと、私(こちら)側からもなにか条件を整わせ身繕いしないという感じもしますが、もちろんそうではないですよね。ただ今、そのまま「ハイ」と聞くだけのですよね。12年ほど、安心問答を読んでいますが、一向に、聞けないのはなぜでしょうか。」(幸せさんのコメントより)

南無阿弥陀仏に飛び込むには、どんな飛び込み方をしたらいいでしょうか?(頂いた質問) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
上記の記事に頂いたコメントです。

幸せ 2022-11-14 21:02
「南無阿弥陀仏から逃げずに、南無阿弥陀仏に向き合いなさい」とのことですが、私は逃げているつもりはないのですが。。。また、「向き合う」という表現だと、私(こちら)側からもなにか条件を整わせ身繕いしないという感じもしますが、もちろんそうではないですよね。ただ今、そのまま「ハイ」と聞くだけのですよね。12年ほど、安心問答を読んでいますが、一向に、聞けないのはなぜでしょうか。

長い間このブログを読んで頂き有り難うございます。
「逃げる」という表現は、親鸞聖人が浄土和讃で「摂取してすてざれば」について左訓をされたところから来ています。

【左訓】「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571・【82】摂取してすてざればの註釈)

ここに「摂はものの逃ぐるを負はへ取るなり」とあるので、「もの」というのは「私(阿弥陀仏の救済対象)」のことですから、「逃げる私を追いかけて救って下さる」というように解釈されます。

しかし、コメントにあるように「逃げているつもりはない」というのも仰る通りだと思います。もちろん「私は阿弥陀仏から逃げ続けている者です」と表現される人もあるのでそのように実感される人もあると思います。

この「逃げる」というのは、阿弥陀仏から見た私の姿という事ですから、真実を聞かず、真実に背いている姿をこのように表現されたものです。いくら喚びかけても、耳を貸さない様子は、声に対して逃げている状態と言えます。

そのような私に対して、南無阿弥陀仏は決して絶える事なく喚び続けられています。

「なぜ聞けないのか」の自問自答と「ただ今助ける」のどちらを聞くか

いわゆる阿弥陀仏がどうやって私を助けるかということについては、よく聞いてこられたのだと思います。
しかし、「一向に聞けないのはなぜでしょうか」と書かれているように、このようなことは日々考えておられるのだと思います。

同語反復のようなことを書きますが、「なぜ聞けないのか」と考えると聞けません。それは、自問自答に過ぎないからです。また、「なぜ聞けないのか」の回答は、必然的に「私がこう聞けば聞ける」になってしまいます。そんな「私がこう聞けば聞ける」という聞き方で助かるということはありません。

聞き方ではなく、「ただ今助ける」の仰せを聞くのが助かるということです。私の中に救いを求めるのではなく、南無阿弥陀仏を称え聞いて下さい。ただ今助けるの仰せの通りにただ今救われて下さい。