安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「南無阿弥陀仏から逃げずに向き合いなさい」という言葉がありますが、南無阿弥陀仏から逃げるな、南無阿弥陀仏に向き合いなさい、というのは私のどのような心についてなのかな?と思いました。」(スナオさんからの質問)

南無阿弥陀仏に飛び込むには、どんな飛び込み方をしたらいいでしょうか?(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)を読みました。

「南無阿弥陀仏に飛び込めという言い方もありますが、それはあれこれ計らうその計らいを捨て去りなさいという意味です。また、南無阿弥陀仏から逃げずに向き合いなさいという意味で使われているものだと思います。阿弥陀仏がどれだけ喚びかけておられても、この私が疑ったり逃げていては聞いたことにはなりません。」(上記エントリーより)

〇上記の中で、「南無阿弥陀仏から逃げずに向き合いなさい」という言葉がありますが、南無阿弥陀仏から逃げるな、南無阿弥陀仏に向き合いなさい、というのは私のどのような心についてなのかな?と思いました。

  • 世間のことには本気になるが、(たとえば、もうけ話には目の色を変えて夢中になったり、夫婦ゲンカの時は本気で腹を立てたりする、など)

そして仏法のことも、世間の事と同じようにどうにかして解決したいと考える、計らう。計らうけど同じことの繰り返しでなかなか解決できず、また計らう。
一方で、阿弥陀仏の本願に対しては、ぼんやりしていて、そのうち何とかなれる、と思う。

  • そのうちなんとかなれる
  • 罪悪をつくっていることが分からない
  • 自分は死なないと思っている

こういう心に対して、南無阿弥陀仏から逃げるな、と書かれたのでしょうか?(スナオさんからの質問)

スナオさんより質問を頂きました。有り難うございました。
南無阿弥陀仏から逃げてはならないと以前書きましたが、「今日は救われないな。明日から本気を出そう」と考えてはならないということです。言い替えると、大事なことは、阿弥陀仏が現在助けようとされているということを抜きにしては自分の心のありさまをあれこれ詮索するのは意味のないことだということです。

例えば外出する際に、上着を着ていくべきかとか、傘を持っていくべきかなどと考えることがあります。
そういう時は、間違いなく「今の気温は暖かいけれど、夕方になったら冷えるかも知れない」とか「いまは曇っているけれども、帰る頃には雨が降るかもしれない」という場合です。どちらも共通しているのは、「ああするべきか」「こうするべきか」という悩みは、未だ見ぬ先のことにどう対策をしようとする点です。


同様に、阿弥陀仏の救いを「そのうち」と思うのは、朝出掛ける際の夕方の気候のように現在のことと考えないことから来ます。
ではなぜ阿弥陀仏の救いを現在のこととして考えないのかというと、それは「とても大変なことだ」と考えるからです。
確かに、煩悩具足の凡夫が浄土往生することは「とても大変なこと」に違いありません。加えて聖道仏教などでさとりを開くことの大変さを知ると、「とてもとても大変なことだ」と思ってしまいます。
また、蓮如上人から「一大事というはこれなり」と聞くと、さらに「これはえらいことになった」と考えます。その時から、私たちはついつい大きな問題に向かっていると感じるとその「傾向と対策」を考えてしまいます。

しかし、よくよく考えて見て下さい。阿弥陀仏の本願は、その「一大事」を「私にやれ」とは言われていません。そうではなくて、「往生一定の身にあなたはなりました」すなわち「ただ今救う」と呼びかけておられます。すでに「完結した」事に対して、傾向と対策を考えることは意味がありません。
阿弥陀仏の本願は決してぼんやりした、未来の話ではありません。現在ただ今、南無阿弥陀仏と呼びかけられている私にとっては間違いないことです。ただ今救うの仰せを聞いてただ今救われて下さい。