安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「宿善を積んでお浄土に行こうというのはまちがっていますか?また聴聞は阿弥陀仏のお話しをそのまま聴くということですが、自分の心を優先して聴いてしまいます。どうしたらよいのでしょうか?」(頂いた質問)

Peing-質問箱-に頂いた質問です。

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Peing-質問箱-より

すこしでも多くお念仏をとなえ、多くご法話を聴くことによって助かろうとしているじぶんがいます。宿善を積んでお浄土に | Peing -質問箱-

これについて以下のように書きました。

何によって救われるのかといえば、「宿善」ではなく「名号」「南無阿弥陀仏」です。その意味で「宿善を積んでお浄土に行こう」というのは間違いです。
また、自分の心を優先してきいてしまうという点ですが、南無阿弥陀仏によって救われるということをよくよく聞いてください。そこに私の心は入る余地はありません。
また、ブログにも書きます。

質問1「宿善を積んでお浄土に行こう」について

「宿善を積んで」と書かれているので、質問された方のいわれる宿善は浄土真宗辞典で書かれている説明では(1)のことだと思います。

しゅくぜん 宿善
1️⃣過去世に積んだ善根のこと。
2️⃣宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと。『御一代記聞書』第233条に「宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ」(浄土真宗聖典註釈版P1307)とあるように、浄土真宗では信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとする。(浄土真宗辞典ー本願寺出版社ーより)

浄土真宗で、救いと宿善の関係についていう時は、2️⃣の意味で使われます。その時には、「私がどれだけお念仏を申した」「どれだけご法話に足を運んだ」ことは宿善とはいいません。あくまで「阿弥陀仏の調育のはたらき」という意味です。


阿弥陀仏の本願は、本願の力だけで私を救ってくださるものです。また、そのように本願を建ててくださいました。なぜなら、阿弥陀仏の本願に私の宿善(過去の善根)を加えなければ成立しない救いということになりますと、阿弥陀仏が救うことができない人が出てくるからです。これは、善根の多少ということもありますが、一番は時間の問題です。この瞬間にも息が切れるという人を救うとには、 救う相手に何かをしてもらっていると間に合わなくなります。何かを「積み上げる」ことで「救いの場所」に到達するような救いではありません。

阿弥陀仏は、「名号(南無阿弥陀仏)」をもって私を救うという本願を建ててくださいました。

みょうごう 名号
(略)曇鸞は名号に破闇満願するはたらきがあること、善導は六字釈によって願と行が具足する名号がよく往生の行となること、法然は名号に阿弥陀仏の無量の徳がそなわっていることをそれぞれ示している。親鸞は、名号が仏の衆生救済の願いのあらわれであり、摂取して捨てないという仏意をあらわす本願招喚の勅命であること、すなわち衆生救済の力用(りきゆう)である本願力そのものが名号であると示している。(浄土真宗辞典ー本願寺出版社ーより)

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。(教行信証・行巻 浄土真宗聖典註釈版P180)

http://urx.space/VCDg

名号一つ、本願力一つで助けてくださいます。その上、「本願招喚の勅命」といわれるように阿弥陀仏の方から私に向かって「摂取して捨てない」と喚び声となって呼び続けておられます。それを私が聞いて疑い無いのが信心ですから、私の宿善(善根)を足す余地はありません。

それは、スマートフォンを動かすos(iOSやandroid)は、すでに動いている状態になればユーザーの側で手出しができないようなものです。また手出しをしてもらっては、設計者の思った通りにプログラムが動きません。そのため手出しができないように設計されています。

そのように、南無阿弥陀仏一つで救うように、本願を建てられて、その通りに成就しているのが今の南無阿弥陀仏ですから、私が手出しをすると、また私の救いとならないようになっています。ここでいう「手出し」というのは、「宿善を積むという考え」も入ります。「じゃあ何もしないで待っていようという不作為の作為」も入ります。

私が称える南無阿弥陀仏は、必ず私の耳に南無阿弥陀仏と聞こえてきます。その南無阿弥陀仏が私を救う働きであると聞いてください。私が「称えた行為」で救われるのではなく、「南無阿弥陀仏」が救って下さいます。

質問2「聴聞は阿弥陀仏のお話しをそのまま聴くということですが、自分の心を優先して聴いてしまいます。どうしたらよいでしょうか?」

ここでいわれる聴聞ですが、仏の教法を聞く(聞法)のことをいわれているのだと思います。
浄土真宗での聞法は、阿弥陀仏の本願とそのいわれを聞くことをいいます。本願を聞くとは、阿弥陀仏の願いを聞くことですから、私の願いを聞いてもらう場が聞法ではありません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通 浄土真宗聖典註釈版P1191)

http://urx.space/RbNF

阿弥陀仏は、私を助けることに、南無阿弥陀仏一つで救うことに疑いはありません。その疑い無い阿弥陀仏の願いを私が聞いたのが信心です。

そうして南無阿弥陀仏やそのいわれを聞く時に自分の心を優先するというのは、「自分の心をどうにかしてほしい」とか「自分都合通りに救って欲しい」ということかと思います。(違っていたらすみません)
自分の思いが先に来るのは、「私の苦しみを何とかして欲しいとお願いする」という気持ちが先に立つことになります。その気持ちはよく分かります。しかし、阿弥陀仏は私の苦しみに先立って、私を救うと願いを建てられてその願いが成就したのが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を聞くというのは、その阿弥陀仏の願いをまず聞くということです。阿弥陀仏の「ただ今助ける」の声に耳を塞ぐのは、自分の願いを聞いて欲しいという心にあります。

まず、阿弥陀仏の立場になって阿弥陀仏の願いを聞いてください。ただ今助けるという願いを聞いたのがただ今助かるということです。