安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「どうしたら阿弥陀仏に救われるのか?」と考えることは悪いことなのでしょうか?(頂いた質問)

「どうしたら阿弥陀仏に救われるのか?」と考えることは悪いことなのでしょうか?(頂いた質問)

これは質問された方がどういう考えでいわれているのかによって答えは変わります。つまり、悪いともいえるし、良いともいえるということです。

1.「どうしたら阿弥陀仏に救われるのか?」と考えることは悪いこと?→いいえ、良いことです。の場合

今まで、浄土とも阿弥陀仏とも考えたことがなかった人が、そのように浄土往生を願い、阿弥陀仏の救いを求められるということは誠に有り難いことです。その意味では良いことです。


2.「どうしたら阿弥陀仏に救われるのか?」と考えることは悪いこと?→はい、悪いことです。の場合

上記に書いたように、浄土往生を願うこと自体はよいことです。しかし、では「どうしたら助かるのか」「どうしたら南無阿弥陀仏をそのまま聞けるのか」と考えることは悪いことです。

なぜなら、それらは本願を聞く「正しい方法」を考えているからです。言い換えると、信心を獲る手段を考えているということです。もし、「信心を獲る手段」があるとすれば、それを知らない人は助かりません。また、それを知った上で「手段を実行する能力」がないと救われません。

そこで阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏と「お前を助ける」と喚びかけ、それをそのまま聞く一つで救うように本願を建てられました。「どうしたら聞けるか」と考えるのは、考えているだけで聞いてはいないということです。

どうしたら聞けるのか、と南無阿弥陀仏を向こうに置いて考えていればつつまでたっても聞いて疑い無い信心とはなりません。どうしたら助かるのかと考えるのではなく、ただ今助けるの南無阿弥陀仏を聞いて下さい。


こうやって救いを求めていることが「正しいこと」であり、「救いに近づいている」と考えるのは勝手ですが、問題は「いつまで考えるのか」と言うことであり、「臨終までに間に合うのか」ということです。下手な考え休むに似たりという言葉の通り、考えれば考えるほど南無阿弥陀仏を聞けなくなります。「求道」のつもりが「休道」になっているのです。

夏休みも終わりが来るように、「救いを求めている私は正しい」という「休道」は終わりにしなければなりません。救われたいという心がないと、真宗は始まりませんが、救われたいの思いを捨てねば救いはありません。ただ今救うの仰せをそのまま聞いて救われて下さい。