安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の本願は成就されていて、それに私の後生をたのむ…ということはわかるのですが、その時に念仏を称えるという行為がどういう関連性があるのかが、わかりません」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-

阿弥陀仏の本願は成就されていて、それに私の後生をたのむ…ということはわかるのですが、その時に念仏を称えるという行 | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

阿弥陀仏の本願は「本願を信じ念仏を申さば仏になる(歎異抄)」
です。
阿弥陀仏は「どうか本願を信じ念仏してください」「本願を信じ、念仏するものを浄土に往生させる」と願われています。その通りに念仏するという意味です。(同)

これに加えて書きます。

「阿弥陀仏の本願は成就されていて」について

「阿弥陀仏の本願は成就されていて、それに私の後生をたのむ」という点についてですが、私を助けるための本願が成就したとは、本願に誓われた通りに働いて下さっていると言うことです。
それを歎異抄の言葉で「本願を信じ念仏を申さば仏になる*1」と質問箱には書きました。実際に私が分かる形で現れて下さっているのが南無阿弥陀仏です。私が口で南無阿弥陀仏と称えているこの南無阿弥陀仏が、阿弥陀仏の働きそのものです。
この南無阿弥陀仏は、私に向かって「ただ今たのめ、ただ今助ける」とよびかけられている本願招喚の勅命*2であると親鸞聖人は教えられています。

「それに私の後生をたのむ」について

「それに私の後生をたのむ」については、南無阿弥陀仏が私に「ただ今たのめ」と呼ばれている声だと聞いて、それにまかせることをいいます。

ですから、私の後生について何をたのむのか、何にまかせるのかと言えば、この南無阿弥陀仏にまかせるということです。「阿弥陀仏の本願は成就されていて」という何かふわっとした自分の想像上の阿弥陀仏にまかせるのではありません。


今私が念仏して、南無阿弥陀仏と称えられているこの南無阿弥陀仏にまかせるということです。「私の後生をたのむ」信心とと、念仏は別のことではありません。

「念仏を称える」の関係性につてい

そのことを、親鸞聖人は御消息で以下のように書かれています。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。(親鸞聖人御消息 - WikiArc7・末灯鈔11・浄土真宗聖典註釈版P749)

では、なぜ信心を離れた念仏もないし、念仏をはなれた信心もないと言われるのかと言えば、続けてこう書かれています。

そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。(同)

浄土真宗の念仏というのは、南無阿弥陀仏を一声称えて往生するという教えを聞いて、一声南無阿弥陀仏と称え、または十声を念仏をすることです。

この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(同) 

この「念仏往生の願」と聞いて疑う心が少しもないことを信心というので、信心と念仏と二つと聞いても、南無阿弥陀仏と一声で救って頂くと聞いて疑いないなら、念仏を離れる信心もないとお聞きしました。また信心を離れた念仏もないと思ってください。

「阿弥陀仏の本願は成就されている」ということと、「後生をたのむ」については、念仏を抜きにしては成立しません。
ただ今南無阿弥陀仏と私が称えている念仏は、阿弥陀仏の喚び声であると聞いて、「ただ今たのめ、ただ今助ける」の南無阿弥陀仏を聞き入れて下さい。

*1:歎異抄 - WikiArc 第12条・浄土真宗聖典註釈版P893

*2:「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。」顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P170