安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「そのまま救うとの阿弥陀仏にお任せし、ただ南無阿弥陀仏と称えていても信心決定とは言えないのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing−質問箱-より

該当記事は以下のものです。
anjinmondou.hatenablog.jp

質問箱には、以下のように書きました。

そのまま救うとの阿弥陀仏の仰せを聞いて疑いないのが信心です。
仰せを聞いて質問に書かれているように聞かれて疑い無いということであれば、それを信心といいます。どのように思ったかということではなく、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いかどうかで信心は言われます。

これに加えて書きます。

南無阿弥陀仏をこのように聞いているという言い方は、いろいろあってもいいと思います。
質問に書かれてますが、

この南無阿弥陀仏を、そのまま聞いたならば、それは「お前は浄土に生まれられるぞ」と呼びかけられていると聴くのです。そう聞けば「私は浄土に生まれられるのだ」と思います。

このように聞いておられるのは、有り難いことだと思います。

ただ「このように思えました」「思えません」ということを持ち出すと、「思えたか思えないか」で「信心決定している、していない」が分かれるという話になってしまいます。

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P678)

親鸞聖人は、信心について「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき」ことであると言われています。疑う心がないということで、「無疑心」ともいいます。ですから、本願を聞いて疑う心があれば、信心ではないですし、疑う心が無ければ信心ということです。

勅命のほかに領解なし

「疑う心がない」ということは、本願を本願通りに聞き入れているということですから、本願招喚の勅命は、そのまま受け取ります。そこで「勅命のほかに領解なし」ともいわれます。

二河白道の譬えで言われる

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P224)

この勅命を疑い無く聞いているのが信心ですから、勅命がそのまま信心です。

ですから、質問箱で書かれている内容について、「そう思える」というよりは「その本願を疑い無く聞いているのでこの通りです」というのが信心について言う場合はそうなると思います。

「このように聞いています」と「このように思えなければならない」の違い

「勅命のほかに領解なし」のように、南無阿弥陀仏を私を呼び続け、我が浄土に生まれよとの仰せと聞いて疑い無い人については、「私はこのように聞いております」ということで、何も問題はありません。

しかし、「そのように思えなければならない」と思った人は、自分の心を「そのようにしよう」と頑張ります。仮に頑張った結果「そのように思えた」としても、それは「思い込み」である可能性があります。

本願を聞いて疑い無く南無阿弥陀仏と申す以外に、何か特別な体験がなければならないということは、真宗の信心にはありません。
信心決定とは何かと言えば、阿弥陀仏の本願を聞いて疑い無いという以外は、別に定義はありません。


南無阿弥陀仏について、疑い無い上でいろいろと思われるならば、それはそれで有り難いことだと思います。