安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「親鸞様のように、地獄一定と知らされなければ、救われないのでしょうか?私は、自分のやっていること、口で言っていること、心で思っていること、を見つめていっても、地獄一定とはどうしても思えないのですが、どうしたら良いのでしょうか?」(Peing質問箱)

Peing-質問箱-より

親鸞様のように、地獄一定と知らされなければ、救われないのでしょうか? | Peing -質問箱-

質問箱には、以下のように書きました。

地獄一定と思えなくても救われます。阿弥陀仏をたのむのが、信心です。

これに加えて書きます。

「地獄一定と知らされなければ救われない」ということはありません。もし、そうであれば「地獄一定と知らされる」という心境に到って初めて救われるということになります。阿弥陀仏は「すべての人に地獄一定と知らせてから救う」という本願は建てられていません。

「救われて知らされる」と「知らされてから救われる」の違い

お尋ねのように、親鸞聖人が仰ったこととして、歎異抄には「地獄は一定」と書かれているところがあります。

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄 - WikiArc第2条・浄土真宗聖典註釈版P833)

どんな仏教の行も完全に修めることができないこのような私は、どうしても地獄以外にすむところはないと言われています。

歎異抄のここの箇所は、晩年の親鸞聖人が関東から尋ねてきた人たちに、ご自身の信心を「愚身の信心におきてはかくのごとし」と表明されているところです。
つまり、親鸞聖人は「救われてこのように知らされた」と仰っているのであって、「このように知らされて救われた」と仰っているのではありません。

もし「このように地獄は一定と知らされてからでなければ救われない」ということであれば、同じ歎異抄第2条にそのように勧めておられる表現がなければなりません。しかし、歎異抄第2条にはそのような文章はありません。

「ただ念仏」であって「地獄一定と知らされてから念仏」ではありません。

具体的にご自身の信心について書かれているのは

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(同上)

法然聖人から勧められたことは、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」だけです。「自分の心の悪を見つめてから念仏して」とは言われていません。


地獄一定と思えなかったら念仏が念仏にならないのではありません。だからこそ「ただ念仏して弥陀にたすけられ」なさいと法然聖人から教えられたのだと言われています。

私が自分自身の罪悪についてどう感じられるかという基準をクリアしないと救われないという本願ではありません。地獄一定かどうかは、私が知らなくても阿弥陀仏は本願を建てる際にすでに考えられています。その本願が成就して、南無阿弥陀仏となって下さったのですから、念仏するための必要条件はありません。

「救われるステージ」は存在しません。

お尋ねの内容からすると、「ここまで到達したら初めて救われる」という「救われるステージ」があるように考えておられるのだと思います。「地獄一定と知らされた人」というステージに立って初めて阿弥陀仏が救ってくださるという内容だと思いますが、そんな場所はありません。

この文章を読まれているただ今に、貴方がいるそこで救われます。そのように「ただ今救う」というのが南無阿弥陀仏です。
ただ念仏して阿弥陀仏に救われるという仰せを聞いて信じる(疑い無い)というのが、親鸞聖人が言われている救いです。

自分の心を見つめても地獄一定と思えなくても、気にする必要はありません。自分の心を見つめるよりも、ただ南無阿弥陀仏と申して、ただ今救う仰せと聞いて救われて下さい。