安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分が聴聞や念仏をするのは信心を獲るためと思っていますが、これは一種の交換条件になってしまうので、獲信には良くないことなのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

自分が聴聞や念仏をするのは信心を獲るためと思っていますが、これは一種の交換条件になってしまうので、獲信には良くな | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

獲信のための手段として聴聞と念仏を考えるのは間違いです。
聞いたのが信心であり、念仏と信心は分けることができません。

これに加えて書きます。
私が聴聞した事や、私が念仏したことを交換条件として、阿弥陀仏が信心を与えてくださると思うのは間違いです。

聴聞と信心の関係は、聞いたのが信心となります。念仏については、念仏という助ける働きが私の上で働いているのを信心といいます。
言い換えると、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心であって、聞いた結果が信心とはいいません。同様に、念仏した結果が信心とはいいません。

「聞いたのが信心」について

親鸞聖人は一念多念証文でこのように書かれています。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1372)

本願を聞いて疑う心がないことを「聞」といいます。その「聞」が信心をあらわすのだと言われています。

信心といってもその内容は、本願を聞いている以外にありません。本願とは、ただ今助けるとの阿弥陀仏の仰せ以外にありません。

私が聴聞した結果が信心となるような、因果関係ではなく、聞いたのが信心となります。これをよく聞即信といいます。逆から言えば、信心は本願を聞いて疑い無いことですから、信即聞ともいいます。

「念仏が私に働いているのが信心」について

念仏は、私が口で南無阿弥陀仏と称えることでもありますが、念仏そのものは本願によって成就した名号(本願名号)が、私に届けられている姿のことです。

この本願名号が、私を往生させる働きであり、阿弥陀仏が選ばれた行であると正信偈にいわれています。

「本願名号正定業」といふは、選択本願の行といふなり。(尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版
P671)

その本願名号を私が聞いて疑い無いときに、私を救う法として働いて下さっている状態を信心といいます。もちろん、この本願名号(念仏)とは、信心がその中にあるものですから、切り離す事は出来ません。

「獲信には良くないことなのでしょうか?」について

何かをしたら獲信が遠ざかるのではないだろうかというものは、本来はありません。反対に、こうしたら獲信が近づくのだろうかという「よりよい方法」というものもありません。

「獲信」というものを、今の自分とは少し離れたところに置いて、そこにどうしたら到達できるかという考えが、疑いとか計らいと言われるものです。一度そこを離れて、本願名号を疑い無く聞いて下さい。