安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

福井座談会2023.09.10、35分あたりで、『これが本当に疑い晴れたならば、わかったことをアテにしないはずなんです。わかったという自分の思いや心をアテにしだすと、これは自力なんです』と言われています。自分が信心をいただいたか否かは、結局のところその体験の有無だと思いますが、上記の発言(本文参照)の意味をもう少し詳しく教えてください。(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

福井座談会2023.09.10、35分あたりで、 | Peing -質問箱-
質問に出てきたYoutubeは、下記のものです。
安心問答 福井座談会 2023.09.10~領解文について - YouTube

質問箱には以下のように答えました。

信心を獲たか獲ていないかの判定基準を、「自分の分かった」「自分の思い」を用いないということです。
南無阿弥陀仏を本願招喚の勅命と聞いている状態の上で、「聞いている私の心」を見て「私は聞いているか聞いていないか」を判断しないということです。そういう判断を持ち出さなくてもよくなった状態です。

これに加えて書きます。
私たちは救われたかどうかと考える時に、自分の心を見て判断する事が多いです。
例えば、「本願を聴いて疑いないのが信心です」と聞いた時に「自分の心は今疑いあるだろうか」と確認をします。そして「疑いが有る」となると「まだ自分は救われていないのだ」とがっかりします。反対に、「自分には疑いない」と思えると「これで助かったのだ」と思います。

前者の場合は、前と何も変わらないと言う事なので質問の主旨とは外れます。後者の場合が、今回の質問に対応すると思います。

自分の心を覗いて「自分は疑いなくなった」としても、いつまでも自分の心の思いぶりをあてにするのは自力です。その証拠に、法座に参詣して手を合わせて、口から念仏も出る、心に喜びも起きる様な時には、機嫌も良くなり往生を手に握り喜びます。日常生活に戻ると、喜び心もなくなるので機嫌も悪くなります。しかし「自分は疑いないから」と自分の心の扱いに掛かり切りになっている状態が、雑修自力と言われる状態です。

領解文では、それをふり捨ててと言われています。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。(領解文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1227)

自分の心にばかり相談しようとするその心を捨てよといわれています。自分の心の状態をどうにかしようと努力するよりも、どうにもならないから助けると言う阿弥陀仏のお助けをたのめと勧めておられます。

自分で目に付く、自分の心や自分の所作を何かとあてにせずにはおれません。それを捨てよと言われます。ただ不要なものなら、領解文の「ふり捨てて」は言われません。捨てねばならないものだから捨てよと言われるのです。

自分の心を、煩悩という面で眺めるととても浄土往生は出来るようには思えません。だからこそ、自分の心の良い部分をあてにしていまいます。「こんなに分かったから」「これだけ疑いないのだから」「これだけ喜べたから」と、そこ以外には頼るものが無いので手放す事は難しくなります。

自分の心のよい部分だけを見つめようとするのは、自分の心を飾っている状態です。飾った状態を阿弥陀仏に見せて救ってもらおうと考えている様なものです。それも全部捨てて、どうにも助からない私を、ただ今助ける本願招喚の勅命を聞いたら、そのような心の扱いをする必要はないということです。