安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願力回向の他力のお念仏であった」とわからせていただくには、やはり聴聞を重ねるしかないのでしょうか?(Peign-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

先日喉を痛め、お念仏が出来なくなって大変あせりました。 | Peing -質問箱-

質問箱には、以下のように書きました。

聴聞は大事です。
ただ「本願力回向の他力のお念仏であった」という信心を想定して、そこにめがけていくつもり考えておられるのは違います。
法座に足を運ぶ回数を重ねた先に救いがあるのではありません。本願力回向の南無阿弥陀仏が救ってくださいます。

これに加えて書きます。

お念仏が出来なくなると阿弥陀様が救って下さらないと思ったからです(質問文より)

というのは、「私の念仏」と「阿弥陀さまの救い」が交換関係のようになっています。質問にも書かれているように、それは自力回向の念仏となります。


お尋ねの

「本願力回向の他力のお念仏であった」とわからせていただく(同)

について、念仏をそのように頂くことを信心といいます。ただ、「そのように分かるまで聞こう」「聴聞を重ねていこう」と考えると、今までの「念仏」が「聴聞」に変わっただけになってしまいます。

聴聞の場に足を運ぶ事はとても大事なことです。しかし、「何が」私を救って下さるのかといえば、南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏は、私の口から出てくださっている念仏そのものです。

ご法話で、南無阿弥陀仏のいわれをどれだけ聞いて理解をしたとしても、この南無阿弥陀仏そのものを横に置いているのであれば、それは「理解した」「分かった」だけで信心とはいいません。

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P170)

「帰命は」とありますが、南無阿弥陀仏の「南無」だけを言われているのではなく、南無阿弥陀仏の六字について言われたものです。
南無阿弥陀仏は私に帰せよと命じる阿弥陀仏の喚び声であるといわれています。

お念仏を南無阿弥陀仏と称え聞くところで「本願招喚の勅命なり」と聞いて疑い無いのが「本願他力回向のお念仏であった」ということです。

聴聞するときは、「南無阿弥陀仏のいわれ」を聞くわけですが、「南無阿弥陀仏」を忘れて「いわれ」だけを理解しようとはしないでください。私を救ってくださるのは「いわれ」ではなく、本願招喚の勅命です。