安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願を聞いた事が信心ならば、本当に浄土に行けるのか阿弥陀仏が本当にいるのか、この教えは本当は作り話ではないのかという疑いは残り続けるということですね。」(Peing-質問箱−より)

Peing-質問箱-より

本願を聞いた事が信心ならば、本当に浄土に行けるのか阿弥陀様が本当にいるのか、この教えは本当は作り話ではないのかと | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

分からないという意味で疑いと書かれているのであれば、そういうことになります。

これに加えて書きます。
質問にあるように、浄土真宗では本願を聞いて疑い無いことを信心と言います。


根本煩悩の一。仏教の真理を疑うこと。親鸞は、阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心とする。→じりきしん(自力心)
浄土真宗辞典より)

本願を自らの計らいを雑えずに聞いていることを、聞いて疑いないといいます。自らの計らいを雑えないというのは、計らいとはそもそも「是か非か、善か悪か、好きか嫌いか」といったように一つの事柄を二つに分類する考えです。分別ともいいます。

阿弥陀仏の本願を聞くと、例えば「私は十方衆生に入るのか入らないのか」とか「私は助かるのか助からないのか」というように、本願や自分を分類して捉えようとします。

ですから「すべての人を助ける」と聞いても「いやいやすべての人と言ってもそうではないでしょう。現に助かっていない人もいるではないか」と分別をしたり。「ただ今助ける本願です」と聞いても、「いや、今ではないでしょう」と「今なのか今ではないのか」と分別して、考えます。


「悪人正機」と聞くと、「悪人を先に助けるのか?善人は後なのか?」「いやいや悪人と自覚している人は先で、自分の悪に気がつかないような人は後だろう」と分別して考えます。

阿弥陀仏の本願は、私たちの分別では計れない智慧の世界から、言葉によって表されたものです。ですから、浄土というのも、本来は仏様にしかわからないことだと和讃にも書かれています。

(12)
安養浄土の荘厳は
 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして
 広大にして辺際なし(高僧和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P580)

「唯仏与仏の知見」とは、さとりの領域はただ仏と仏のみが知ることがらであること(浄土真宗聖典註釈版より)をいいます。浄土がどんなところなのかは、浄土そのものが仏の智慧そのものですから、分別することでしか物事を見る事ができない私たちは、それを知る事ができません。
「広大にして辺際なし」とは、「浄土には境界がない」ということですが、「浄土はどこかにあるとすれば、どこにあるのか、境界はどこか」としか考えられない私たちからすると理解ができません。


そういう浄土に往生するというのは、分別を入れて考えるとよく分からなくなってしまいます。それは、私の智慧が仏様のような無分別智といわれるような智慧がないからです。
無分別智の世界から言葉になってあらわされた本願は、その性質上、私の分別を入れるとまったく受け入れることができません。ですから、本願を聞くというのは、私の分別を入れずに聞くことによって、初めて聞く事ができます。

ですから、「本願を聞いた」ということは「そのまま聞いた」「計らいを入れずに聞いた」だけであって、「仏のように分かった」ことではありません。

ただ、本願に説かれていることについては「本当だろうか」とは思いません。「仏様のようには分からない」とは思います。本願を聞くということは、本願を信じることですから、阿弥陀仏や浄土について、私の分別を持ち込まないこということです。あれこれ考えても、「仏様のように分かるものではない」という点では、「分からない」としか言えません。

「仏様のように分からない」ということを「疑い」というのであれば、それは私の命がある間はその状態です。ただ、阿弥陀仏、本願、浄土、南無阿弥陀仏についてはその通りと聞いている事も変わりません。