安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「疑心がないという事を自分の心が本願はもう疑うことができない本願は本当の事だった!となる事だと誤解し、まだそうなっていないから信心得られていないと思っている人は多いと思います。疑心がないというのは浄土往生するには、本願を疑っても良いし念仏も称える必要もないし、自分を浄土へ救う本願であると言葉通り聞いているただそれだけです。これが私の信心の理解ですがどう思われますか。」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

親鸞聖人の信心の定義は本願を聞いて疑心がない事だと表現していますが、これは誤解を招き安く説明不足に感じます。 | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

自分の心に疑心がなくなったかどうかにこだわる人も出てくるというご指摘はごもっともだと思います。
本願を聞いて疑心がないというのは、縮めて書けば本願を聞いているということですが、親鸞聖人が「義心あることなし」「疑うこころのなきなり」と書かれているのでそのように表現した方が良いと私は思っています。
どのように表現するかは人によっていろいろあるとは思いますので、これを書かれた方の表現でもよいと思います。

これに加えて書きます。
「信心は本願をただ聞いているだけ」と言うのは、よく言われる言い方で「勅命のほかに領解なし」とも言われます。自分の心の変化や有りようをもって信心とはせずに、南無阿弥陀仏を本願招喚の勅命であると聞き入れている状態を信心としています。

もちろんどの言い方もそれぞれ一長一短はあります。
念仏を強調する事で、念仏する行為そのものに拘り、何回称えるべきかという議論をしてきた歴史もあります。
また、信心については自分の心のありようを強調すると、そこからいろいろな異義異安心といったものも出てきました。

蓮如上人の御文章では、「雑行を捨てて弥陀をたのむ」のが信心と言われています。

しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc188・浄土真宗聖典註釈版P1290)

この説明もとても分かりやすいのですが、これについても「どうやったら雑行を捨てられるか」とか「雑行を捨てるにはまず雑行を一生懸命しなければ」ということに拘る人もあります。

雑行を捨てるというのは、自力を捨てるということですが、それは自分で頑張って捨てることではありません。

親鸞聖人は唯信鈔文意にこのように書かれています。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P707)

ここでは「身をたのまず、あしきこころをかへりみず」「名号を信楽す」ることであると言われています。

自分自身や自分のこころを顧みずに、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことだと言われています。お尋ねにあるように、自分の心がどうなったということを信心とは言われていません。


ただ、

疑心がないというのは浄土往生するには、本願を疑っても良いし念仏も称える必要もないし、自分を浄土へ救う本願であると言葉通り聞いているただそれだけです。これが私の信心の理解ですがどう思われますか。(質問より)

については、「本願を疑っても良いし念仏も称える必要もないし」だけを読んでいろいろと思う人もあると思います。全文を読めば主旨はよくわかりますが、少し文章を変えた方が誤解は少ないかと思います。

以下のように少し変えてみました。
「疑心がないというは、自分を浄土へ救う本願であると言葉通り聞いているただそれだけです。
 疑心が無い状態になるには、本願を疑ってもそれが障害にはなりません。また私が称えた念仏するという行為で無くなるのでもありません。」

浄土真宗は南無阿弥陀仏の宗教なので、南無阿弥陀仏と称え聞いて疑い無いままが、信心であり念仏であると教えられています。念仏については、「ただ口で称えたら、それによって助かると思うのは間違い」くらいの言い方の方がやはりよいと思います。