安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「『後生の一大事を解決した人』は、死後がどのようにわかるようになるのでしょうか?」(ひなさんのコメント)

ひな 2013/08/16 09:32
山も山さん、「信後の死後の見え方」についてお尋ねしたいと思います。

私は今まで「後生の一大事」が気になって、仏教を聞いてきました。
と言っても、死ぬのが怖くて仕方がなかったという訳ではありません。
私は「無常観」よりも「罪悪観」の方が強くて、自分の罪悪を見ると、死んだ後にいい所に行けるとはとても思えなかったのです。
だから「後生」と聞くと、暗くて薄気味の悪い世界が果てし無く広がっている・・・というイメージしか持てませんでした。

親鸞会では、獲信すると「いつ死んでも極楽参り間違いなしの絶対の幸福になれる」と教えられてきました。
信後は「生きてよし死んでよし」になれると聞かされていたので、後生の一大事を解決すると(死の恐怖から解放されるのだ・・・)としか思えませんでした。
しかし今、大地震が来たら、私は真っ先に逃げると思います。
もちろん、死ぬのが怖いからです。

親鸞会で聞いていた、縦の線の所で「地獄一定と突き落とされる」という体験も私にはありませんでした。
私は、「いつ死んでも極楽参り間違いなし」とは思えないし、自分が死後どこに行くのかもわかりません。
それに「後生の一大事の解決ができた」という実感もありません。
ただ(後生の一大事の解決をしなければ・・・)という気持ちそのものがすっかり取られてしまって、無くなってしまった・・・という状態です。

私は「鬼」なので、「地獄に行け!」と言われても文句が言えません・・・。
でも、阿弥陀様が「堕としはせぬぞ!」とおっしゃっているので、仰せの通り「お浄土」に行こうと思っています。

山も山さん、「後生の一大事を解決した人」は、死後がどのようにわかるようになるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130814/1376468229#c1376613135

「死後がどうのようにわかるようになるのか」については、何もわからないと答えるよりありません。何か死後が分かるようになったら、それは凡夫ではありません。死ぬまで凡夫であるまま救われるのが、阿弥陀仏の救いですから、死後が何かわかるようになるわけではありません。


阿弥陀仏に救われるとは、阿弥陀仏の本願をそのまま聞き入れることです。その阿弥陀仏の本願とは、歎異抄でいえば「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と表現されています。阿弥陀仏は、まことのこころで本願を信じて我が浄土に生まれらると思いなさい、そしてわずか十回でも念仏を称えてください。そういう者がもし私の浄土に往生しないようなことがあれば仏になりませんと、第十八願に誓われています。

安楽浄土に生れんとおもへ

尊号真像銘文では、第十八願について親鸞聖人が解説されていますが、その中の一部を紹介します。

「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。(尊号真像銘文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P643)

http://goo.gl/XYXC0a

阿弥陀仏は、他力の至心信楽の心をもって阿弥陀仏の浄土に生まれられると思いなさいと願われています。その本願が成就して、私に呼びかけられているのが南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏が私の口から出て、私が称えさせられているものです。


こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし

この南無阿弥陀仏を、そのまま聞いたならば、それは「お前は浄土に生まれられるぞ」と呼びかけられていると聞くのです。そう聞けば「私は浄土に生まれられるのだ」と思います。そのことを、法然聖人はこのようにいわれています。

煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。(西方指南鈔_大胡の太郎實秀へつかわす御返事)

http://goo.gl/tpxvGO

「ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」が深心であり、これが真実信心です。また、この信心をその身に具えた人は必ず往生するのだといわれています。

ひなさんのコメントの内容からすると、死んだ後がわかるかわからないかという問題は、「煩悩のうすくこき」ということです。言葉を変えれば「後生がわかるかわからないか」ということになります。なぜなら、煩悩を断じてさとりをひらいた人ならば、私の後生を知ることができるからです。しかしここではその煩悩の薄い濃いを「かへりみず」といわれています。


「後生がわかるかわからないかを問題にしない」ということです。どれだけ心配しても、後生のことは凡夫にはわかりませんし、かりに「地獄行きだ」と目の当たりにするようにわかったとしてもどうしようもありません。そのような後生もなにも分からない私のために、阿弥陀仏が建てられた本願であり、その願が成就した南無阿弥陀仏です。私が南無阿弥陀仏と称えて、それを聞いて「声につきて決定往生の思いをなす」のも、自分の目で浄土が見えるからではありません。そのように私を常に呼びかけて下さる阿弥陀仏の仰せにまかせているからです。浄土が見えるようになったから「決定往生の思い」になるのではありません。

南無阿弥陀仏に従うだけで、私が思ったことではありません

ひなさんのコメントにある「いつ死んでも極楽参り間違いなし」というのは、私の自覚においていうことではなく、南無阿弥陀仏の仰せにおいていうものです。煩悩や罪悪の上から言えば、とても「決定往生の思い」などなれるような私ではありません。それでも「他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへ」と呼びかけられる南無阿弥陀仏を聞けば、その通りになるとしか言い様がありません。私がそう思うのではなく、阿弥陀仏がそう仰っているということです。


私は自分の死後は、気になりません。いつ死ぬかもわかりません。もちろん、急いで死にたいとも思いませんが、阿弥陀仏の本願が南無阿弥陀仏となって私に呼びかけられている以上は、仰せにまかせたのであって、それは私の持ち分ではありません。浄土に行きたいからといって、浄土にまゐれるようなものでもなければ、地獄に堕ちたくないからといって地獄に堕ちないようにできるような者でもありません。お前を浄土に往生させる、そうでなければ仏にならないと誓われた本願が成就しているのですから、その通りになるのです。それは、私に智慧が身について見えるようになったからでもなにもありません。