安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願を疑う【悪】と「悪」の違いについて(maryさんのコメントより)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。回答が遅くなり、申し訳ございませんでした。

本願を疑う心が、そんなに悪いとは思っていないのは、やはり阿弥陀仏の御心がよく分かっていないからなのでしょうか・・・?
(maryさんのコメント)

結論から言いますと、「悪い」の定義が違います。
阿弥陀仏の本願を疑う心は、「悪い」のですが、この「悪い」というのは、世に言う「善悪」でいう「悪い」とは意味が異なります。いわゆる「殺生」などよりも、もっと「悪い」ものだろうと想像し、「なぜそのように悪いと思えないのだろう」と考えても、そのような「悪い」ではありませんから、いつまでたっても想像したような「悪い」ものとは思えません。

では「阿弥陀仏の本願を疑う心が悪い」というのはどういうことかといいますと、歎異抄のお言葉から説明をします。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に(歎異抄1章)

「悪」をも恐れる必要はない、阿弥陀仏の本願を妨げるほどの【悪】はないからである。
区別をつけるために、「悪」と【悪】と表記を変えました。
前者の「悪」とは、いわゆる「善悪」で語られるところの「悪」です。殺生や、人の物を盗むとか、世の中にいわれる「悪」を指していわれています。
後者の【悪】とは、「弥陀の本願をさまたげるもの」を指していわれていますので、ものがらが違います。

この歎異抄1章は、阿弥陀仏の救いについていわれたもので、私たちの生活様式や態度をいわれたものではありません。「悪をもおそるべからず」といって、「悪」をやりたい放題やってもかまわないといわれたものでは無いことは当然のことです。
阿弥陀仏の本願は、同じく歎異抄1章に

罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。(同上)

といわれているように、罪悪深重であり、煩悩が燃えさかっているものを助けるために建てられた願なので、こんな「悪」をつくった者は救われないのではないかというような、阿弥陀仏が助けられない「悪」はないということです。

そういうものを助けるために、阿弥陀仏は五劫思惟され、兆載永劫の行をされて南無阿弥陀仏を完成され、今日現在も我々に南無阿弥陀仏を与えようと大変なご苦労をされているのです。その本師本仏の阿弥陀仏の救いを妨げるほどの【悪】はありません。

もちろん逆謗の屍は恐ろしい罪を作っています。謗法罪という罪と、阿弥陀仏の本願を疑う【悪】(仏智疑う罪)は、違うのです。
逆謗の屍という「悪」は、救われても逆謗の屍ですが、仏智疑う罪【悪】は、阿弥陀仏に救われると全くなくなるものです。

この二つの区別は、ハッキリするのは阿弥陀仏に救われた後ですが、信前信後で何が変わって、何が変わらないかをよく知らねば、また捨てることはできませんので、この違いはよく知っていただきたいと思います。