安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願は、「悪人正機」と言われますが、どういった意味なのでしょうか。」(ジャギさんのコメント)

ジャギさんよりコメントを頂きました。そのジャギさんのコメントに複数コメントを頂き有難うございました。

ジャギ 2012/01/16 22:00
本願は、「悪人正機」と言われますが、どういった意味なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120116/1326701511#c1326718857

悪人正機とは、悪人が阿弥陀仏の本願の目当てであるという意味です。以前のエントリーで書いたように、「阿弥陀仏が全ての人を五逆罪の悪人と見ぬかれた」いう意味ではありません。

幹部会員歴数十年さんのコメントにあるように、口伝鈔には以下のように書かれています。

悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし(口伝鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P908)

http://goo.gl/bMzpN

凡夫目当ての本願といいましても、ここでは悪凡夫、善凡夫と分けた上で、悪凡夫こそ本願で目当てに建てられた相手であって(正機)であって、善凡夫は傍機と言われています。ですから、悪人正機の「正機」は、「傍機」に対する言葉です。

教行信証では、以下のように書かれています。

願海は二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。(教行信証行巻・一乗海釈・浄土真宗聖典(註釈版)P197)

http://goo.gl/dkVA6

ここで、本願は二乗の者を救うと言われています。「二乗雑善の中・下」と言われているのは、声聞や縁覚といわれる自力で修行をしてさとりを開こうとしている人のことです。それらの人を救うのだから、まして人間や天人もなおさら救ってくださるのだと言われています。

ですから、阿弥陀仏の本願は悪人正機だから、十方衆生は悪人だということにはなりません。十方衆生の中には声聞、縁覚も人間も天人いて、それら全てを救ってくださるけれども、中でも悪凡夫を目当てに本願を建てられたのだということです。

では、なぜ悪凡夫(悪人)を目当てに本願を建てられたのかといえば、仏の慈悲は罪の重い者になお重くかかるからです。

たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。(教行信証信巻末-涅槃経より引文・浄土真宗聖典(註釈版)P279)

一人の親に七人の子供があった場合、親の慈悲に差別はないけれども病気にかかった子供にひとえに親の慈悲は重くかかります。そのように、如来の慈悲も同じです。あらゆる衆生が世の中にあります。善人悪人、声聞縁覚菩薩、または、虫や魚にいたるまで、仏の慈悲は平等なのですが、罪のある者にひとえに重くかかります。
声聞縁覚よりも、凡夫に、凡夫の中でも悪凡夫(悪人)により重く仏の慈悲はかかっているのですから、悪人を目当てに本願を建てられたというのが悪人正機です。

ただここで「悪人」と言われるのは、

仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば(歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)

http://goo.gl/Ul53s

というように、「仏かねてしろしめして」といわれるものです。

私が、自己を深く見つめて初めて「私は悪人だったのだ」と気がつく悪人ではありません。そんな私より先に、阿弥陀仏の方ですでに問題にされている私の相です。その相とは、阿弥陀仏が、私のことを自らの力では絶対に仏になることがない者、輪転の相の者であると見てとられた相です。仏願の生起本末の生起でいわれる私の相です。


よって、「阿弥陀仏の本願は悪人正機」を自分のこととしていう時は、「阿弥陀仏が見られたように私は自力で出離のできない者だった。それを正客として本願を建てられたのだ」ということになります。
これは、コメント欄にいろいろ書かれているような、「私はよくよく考えて自己を見つめたら悪人であったと分かりました。だから全人類は悪人です。それを阿弥陀仏が救ってくださるのです」とは違います。それは以前も書きましたが、信罪福心をもって本願を聞こうとする考えかたです。自らの力で、自分を見つめた罪悪を通して阿弥陀仏の本願を聞こうというのは間違いです。加えて、自分がそうだからみんなそうだというのはその人の思いに過ぎません。人の心の全てを人間同士知ることはできないのですから。


また「悪人正機だから私は悪人だ」という場合でも、それは「自分で自分を見た相」ではなく、「阿弥陀仏が私をみた相」です。阿弥陀仏は、自力無功のものだからこそ慈悲をおこされ本願を建てられたのです。自分で自分を見つめるより先に、阿弥陀仏がすでに見ぬいておられた相を本願から聞かせて頂いたことを言います。阿弥陀仏の本願を聞いてさらに自己を追求することではありません。