安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信前の「罪悪観」と「悪果を恐れる気持ち」は、信後どのように変化するものなのでしょうか?」(ひなさんのコメント)

ひな 2013/08/11 09:20
山も山さん、「信後の罪悪観」についてお尋ねしたいと思います。

親鸞会にいた時は、人や生き物に対する罪悪しか見えていませんでした。
人や生き物に対して悪を造ると、(こんなことをしていたら、ロクな結果が来ないぞ・・・)という悪果を恐れる心が出てきて、その度にイヤな気持ちになっていました。

親鸞会を離れて、正しい浄土真宗の御教えを聞くようになってからは、今度は意外なことに阿弥陀仏に対する罪悪を見せつけられるようになってきました。
(なかなか救ってもらえない・・・)と嘆き、阿弥陀仏を恨む一方で、(救ってくれなくてもいい!)と阿弥陀仏に牙を剥き、逃げ回っているどうしようもない自分の姿が照らし出されてきたのです・・・。

親鸞会で聞かされていたような、法鏡の真ん前で自分の真実の姿が全部見えて、悲泣悶絶してキリキリ舞いをするというような体験は、私にはありませんでした。
私の罪悪の見え方はそういう風にではなくて、その時々に自分の罪悪の一部を照らし出されて、見せつけられてきた・・・という感じです。
それに、自分の罪悪を見て悲泣悶絶する気持ちなど無く、悪を悪とも思わない冷め切った我が身の姿が知らされただけです。
そもそも私には、初めから法を求める心など無かったのです・・・。

毎日、生き物の命を平気で奪い、喜んで食べている自分は「鬼」だと思います。
でも、そんな己れの姿を見ても(なるほどコイツは、お浄土に行けるような奴ではないな・・・)と思うだけです。
以前にはあった悪報に怯える気持ちも、今はありません。

山も山さん、信前の「罪悪観」と「悪果を恐れる気持ち」は、信後どのように変化するものなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130804/1375568751#c1376180417

とくに親鸞会にいた人にとっての「罪悪観」「悪果を恐れる気持ち」は、ひなさんがかかれたいたようなものだと思います。言葉を変えれば、「私が地獄に堕ちるかどうか」という観点から、自らの罪悪を見つめ、その結果「悪果(地獄に堕ちる)を恐れる気持ち」になっています。


では、阿弥陀仏に救われた後に自己の罪悪や悪果を恐れる気持ちはどうなるのかについて書きます。以前のエントリーで紹介した「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」から説明します。


まず、「罪悪観」が阿弥陀仏に救われたときから突然深くなるということはありません。そのあたりはやはり凡夫でありますから、自分の目の届く範囲での罪悪しかわかりません。しかし、その自分が見える範囲での罪悪をとおして「阿弥陀仏の慈悲」を味わうようになります。それまでは「こんな罪悪を造っているものは救われ難い。地獄へ行くしかないのか」と思っていたところが、「こんな罪悪を造っているものを憐れに思われて本願を建ててくださったのか。有り難い」と、阿弥陀仏のお慈悲を味わうようになります。


歎異抄第3条(悪人正機)でいえば、以下の部分です。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄第3条_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P834)

「煩悩具足のわれら」というのは、「いづれの行にても生死をはなるることあるべからず」な者ということです。「どれだけ悪い事をしてきたか」については、個々人の人生があり、また感受性も違いますから、個人差があります。しかし、その人が「どんな悪を造ってきたかという自覚」については個人差はあっても、「いづれの行にても生死をはなるることあるべからず」という点では同じです。そんな私を「あはれみたまひて願をおこしたまふ」のが法蔵菩薩であり、ただ今の阿弥陀如来です。そういう意味では、「罪悪観」は個人差はあっても、そこに「あはれみたまひて願をおこしたまふ」阿弥陀仏の大慈悲を味わう点が、救われる前とは異なります。

また、「悪果を恐れる気持ち」に関しては、阿弥陀仏に救われるまでは「全て自分で引き受けなければならない」と思っていたから恐れていただけです。しかし、阿弥陀仏に救われると言うことは、「全てこの阿弥陀仏が罪悪の結果は引き受けるから、私にまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せをそのまま聞くことなので、「自分が引き受けなければ」という恐れはありません。


自分の行った悪業を恐れるのは「これでは地獄に行く」あるいは「これでは浄土往生はできない」という思いによるものです。しかし、阿弥陀仏はそんな「私の思い」については気にしなくていいのだから、すべて私にまかせよと仰います。そのように自分一人で自分の罪を抱えたまま右往左往していた私にたいして、「貴方一人のために本願を建てたのですよ。だから心配するな」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。


その阿弥陀仏の仰せを聞かれた上での、親鸞聖人が仰ったと書かれているのが以下の歎異抄のお言葉です。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(歎異抄後序_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P853)

煩悩しかない私は、日々罪悪を重ねていることは、自覚の有無に関係ない事実です。しかし、そんな私一人を「たすけんとおぼしたちける本願」と聞けば「かたじけなさよ」というより他はありません。
「たすける」ということは、その罪悪の結果は阿弥陀仏が引き受けて下さるということです。もちろん、阿弥陀仏が引き受けて下さるのだから罪悪を造ってもいいのだというのは間違いです。「本願のかたじけなさよ」と思えば、悪に対して恐れる気持ちもあってしかるべきだと思います。