安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「何か手立てを捜さずにはおれない自分」は変わるか?(最後の学徒さんのコメント)

最後の学徒さんよりコメントを頂きました。有り難うございました

「ただ今の救いであり、往生に役立つ者は何も無いと聞かされていても、何か手立てを捜さずにはおれない自分と知らされ、謗法の者と知らされ」たと表現された事と、やまもやまさんの自力の計らいが廃る事とは関係がありましたでしょうか?(最後の学徒さんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090930/1254301341#c1254325144

回答します。
自分が弥陀の本願に対してあれこれと手立てを考えることと、自力の計らいが廃ることとは、因果関係はありません。
阿弥陀仏に救われるかどうかは、阿弥陀仏のお働きによるもので、私の働きではありません。
あれこれと手立てを考えるのは、私が勝手にやっていることです。自力の計らいが廃るのは、阿弥陀仏のお仕事です。

やまもやまさんの言われるところの
「何か手立てを捜さずにはおれない自分」は変わるのか変わらないのか。
変わるとしたら何によって変わるのか。
変わらないとしたら、変わらないまま救われるのか。

やまもやまさん自身の知らされた姿なのでしょうが、
私自身の姿とも思えます(最後の学徒さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090930/1254301341#c1254327062

回答します。
救われる為にあれこれ手立てを考えることは、救われたらなくなります。
しかし、あれこれ考える煩悩具足の者という姿は何も変わりません。

前回のエントリーで紹介した、歎異抄3章にあります。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄3章

阿弥陀仏は、私たちを煩悩具足の凡夫と見抜いて、それをあわれに思われて本願を建てられました。それは、煩悩具足の凡夫を、悪人のまま救うというものです。
悪人が成仏するのは、善人になるということではありません。他力をたのむということです。

疑いということをいうならば、煩悩で言う疑う心は何もかわりません。疑い晴れた南無阿弥陀仏をそのまま聞信することです。

細かく言えば、手立てを捜す者ということと、誹謗正法ということはイコールではありません。誹謗正法の者というのは、あくまでも阿弥陀仏の法の上で知らされることです。

法の上で、救われた自身が知らされることであって、私の力でどうこうしたから知らされることではありません。