阿弥陀仏は私を具体的にはどう見られ、どう救ってくださるのでしょうか。
本当の自分に気がつかねば助からないように思いますが?(頂いた質問)
阿弥陀仏は、私をどのようにご覧になっているかという…については、確かに罪が深いものと見られています。しかし、罪が深いから、その罪を自分の力で消したものでなければ浄土に来させないとは言われていません。
阿弥陀仏は、自力で生死を離れることができないものと見られています。なぜなら、たとえどれだけ罪深いといっても、罪を自分で消せるものではないからです。
歎異抄3章 悪人正機には
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意
といわれています。
阿弥陀仏からご覧になった私は「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」者です。それに対して、「現在生きている私の実感」としての私の姿は、「極悪人」と人から言われても、「実感レベル」では100人いれば100通りのものがあるということです。自己の罪悪観を基準にした場合、実感から言えば全く同じになることはありません。
ですから、「実感レベル」で「罪悪」を論じると、例えば以下のようになります。
A「お前は極悪人だ」
B「そう思いますが、なかなか」
A「まだまだだめだ」
こんな感じです。
しかし、「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」は、実感で罪悪を論じて個人差があってもこれだけは同じになります。「これだけ自分は頑張っている」と自己の善根に目をむけ比較をしたことに、それで生死を離れることができるのならば、頑張っている自覚のある人ならばすでに生死を離れている人も多いでしょう。しかし「いづれの行」であっても生死をはなれられないから「煩悩具足のわれら」といわれるのです。
自分の罪悪を見つめたり、人から問い詰められるのも、一つの行かもしれませんが、それで生死を離れられますか?という問題です。もし、それで生死を離れることができるならば、阿弥陀仏は本願を建てる必要はそもそもありませんでした。
ですから、阿弥陀仏は、私のために南無阿弥陀仏を成就して、ただ今私にさしむけてくださっています。
そこで、上記の歎異抄の続きには
悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
他力をたのみたてまつる悪人が、往生の正因であるといわれています。
同様のことは、同じく歎異抄の3章に
自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
といわれています。
ここで、「自力のこころをひるがへして、他力をたのむ」「他力をたのむ」と言われているのは、本当の自己を知ることによって、南無阿弥陀仏に気がつくということではありません。
どれだけ自己の罪悪を問い詰めてそれこそ終わりはありません。そのような自己の心の中の調査をやめて、南無阿弥陀仏の仰せを聞くことです。いつでも阿弥陀仏が先で、自分は後になります。自分の中の決心を定めてから、法を聞こうとするとすべてうまくいきません。
ただ今お前を救うぞと仰せを、仰せの通りに聞くのが、本願を聞いたということです。ただ今助けるとの仰せがあるから、ただ今助かります。