安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願ぼこりについて(頂いた質問)

本願ぼこりとはどういうことでしょうか(頂いた質問)

本願ぼこりとは、阿弥陀仏の本願はどんな悪人でも助ける本願だと甘えることです。ただ、そういう本願があるからと、悪に誇る人たちをまた「本願にあまえてつけあがる」と批判される時にも使われる言葉です。
歎異抄13章が有名です。

弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。(歎異抄13章

これは、阿弥陀仏の本願があるから、悪を恐れない者がいるが、そんなものは本願にあまえているのであって、往生はできないのだと言う人がいると書かれています。

阿弥陀仏の本願は、どれほど罪の深い者でも助けると誓われています。本願にあまえることそれ自体が間違いであるならば、罪を造らない身にならなければなりません。また、阿弥陀仏と距離を置いて、他人同士のような緊張した状態を維持していかねばなりません。

「どんな悪人でも助ける」「阿弥陀仏の本願に甘える」は、阿弥陀仏と私の間でのことです。
「本願にあまえてつけあがるのはいかがなものか」「本願があるからといって悪にほこり善をすすめないのは間違いだ」というのは、私と他人でいわれる問題です。

阿弥陀仏と私の間のことを、親子の問題とするならば、私と他人のことは、それに口を挟む叔父さんや、近所の人、今で言えばマスコミの論理です。

「本願があるからといってそれに甘えていいものか?」というのは、親に甘える子供に小言をいう叔父さんの論理です。それ自体は、正論と言えば正論ですが、甘えること自体を否定するようになれば、余計なお世話と言わざるを得ません。親子の間に他人がそこまで入って良いものではないからです。

親に甘える前から、「甘えたらいかんぞ」と散々言われてしまえば、子供も親に心を開くことができません。また、それは決して親がいう言葉ではありません。
阿弥陀仏は私に対して、甘えたらよいのだと、そのまま来いと仰っているのですから、それに従ったらよいのです。

だからといって、悪をし放題にしても良いというのは、親子の間でいわれることを、世間に持ってきているのですからそれは間違いです。

子供が悪をしないようにしようと思うのでも「親が悲しむから」と思うか「親に叱られるから」と思うかでは、行動は同じでも心は全く異なります。

「親に叱られるから」と思っている子供は、親が叱らないとなればやりたい放題にやるでしょう。
「叱られるとか」「叱られない」は、子供視点の理屈です。本願をほこり、悪をやりたい放題にするというのは、阿弥陀仏の大慈悲心を忘れた言い方です。
「親が悲しむか」「悲しまないか」は、親視点のことです。そうなれば、世の中での振る舞いは、決して悪にほこるようなことになってはならないところです。

どんな悪人も助けるという阿弥陀仏の本願を、自分の目線で見れば、批判される本願ぼこりになりますが、阿弥陀仏の目線からいえば、大変有り難いことと思います。