安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「宿善も遅速あり」という言葉の意味(ドイツ人さんのコメントに関連した質問)

前回のエントリー(「信心決定あれかし」というおすすめ(ドイツ人さんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について))について

要点をまとめると、
・信仰に段階はない
・今救われたらそれでよい
ということでしょうか?
(ドイツ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090322/1237672765#c1237732967

について回答をいたしましたが、メールで同様の質問をいただきました。
複数頂いたので、まとめますと

蓮如上人は、宿善も遅速あり、宿善も厚薄があるといわれているから、信仰に段階があるのではないでしょうか?

というものでした。

回答をいたします。
結論から言いますと、「宿善も遅速あり」というのは、信仰(信前の)段階をいわれたものではありません。
どういうことかを、該当の御一代記聞書から解説します。

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり(御一代記聞書309)

陽気、陰気ということがある。日の当たるところの花は早く開く、日陰の花は遅く咲く。同じように、阿弥陀仏に救われるにも遅い人と速い人がある、だからすでに往生した人、今往生した人、これから往生する人がある。阿弥陀仏の光明にあって、はやく救われる人もある、遅く救われる人もある。とにかく、信心決定している人も、また信心決定していない人も、仏法を心に入れて聴聞しなさいといわれています。

ここで「宿善も遅速あり」の「宿善」について、「阿弥陀仏に救われる」と書きましたが、これは同じく蓮如上人御一代記聞書にいわれていることです。

他宗には法にあいたるを宿縁という。当流には信をとることを宿善という。信心をうること肝要なり。(御一代記聞書236)

他宗では仏法にであったことを宿縁という、浄土真宗では信心決定することを宿善という。ただいま信心をうることがもっとも大事なことなのだ、と蓮如上人はいわれています。

また、「宿善に厚薄あり」という、ことば自体は、御文章、御一代記聞書にはありません。御文章に「宿因深厚の行者」という言葉はありますが、これも信前の信仰の段階をいわれたものではないことは、前後から明確です。

願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり。
或はこの位を、すなわち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいうべし。(御文章4帖目1通・念仏行者)

本願成就文には、「即得往生・住不退転」と説かれている。その位のことを、真実信心の人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいうのだと蓮如上人はいわれています。
「宿因深厚」の人とは、「信前で信仰のすすんだ人」という意味ではありません、「平生業成の人」といわれていますから、平生に阿弥陀仏に救われた人のことをいいます。

信仰に段階というのは、すでに弥陀に救われ人を導く立場の人が、言う言葉です。蓮如上人で言えば「宿善・無宿善」がこれにあたります。
我が身の信仰に使う言葉ではありません。どれほど段階があろうとも、ただ今弥陀に救われているか、救われていないかは本人が分かっていることですから。
ただ今弥陀に救われる事が大事なことなのです。