安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

反駁する心、躊躇する心とは?(カナダ人さんのコメントより)

カナダ人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏に信じてうちまかせようとして、
1.実際に「弥陀たのむ」身になりましたか?
2.なれないとした時に、おきた心を打ち出して見て下さい。
とのお尋ねに私のありのままを書かせていただきます。
1.実際に「弥陀たのむ」身になりません。
2.反駁する心、躊躇する心がおこります。分からないまま、信じられないまま、疑いの有るままだからと思いますが、この心の有るまま阿弥陀仏にうちまかせようとしても、反駁する心、躊躇する心がおこり、結果、行けませんし、タノメませんし、うちまかせられません。以上です。何が自力で何が自性の煩悩なのか?何を捨てて何が変わらないのか?自分で自分の心が何が何だかわかりません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090323/1237762059#c1237806335

実際にただ今弥陀に救われようと思うところから求道は始まります。求道をして、いろいろと見えてくる心がありますが、その見えてくるものには、欲や怒りの煩悩もあれば、自力の心もあります。逆謗の屍といわれるものもあります。
なにが救いを妨げているものなのか、何が生死流転の本源なのかをよくしらなければなりません。知らなければ、御文章にたびたび出てくる「雑行雑修自力の心をふりすてて」といわれる部分がわかりません。
「自分の心が何が何だかわかりません」とあるように、信心の沙汰をせよとたびたびいわれるように、自分の心だからといって、自分で全部わかるものではありません。だからこそ打ち出してもらっているのです。

安心のとおりをよく心得ずは、相かまえて今日よりして他力の大信心の趣を、懇に人に相たずねて、報土往生を決定せしむべきなり。(御文章3帖目1通・摂取と光明)

真実信心を決定していないひとは、今から他力の信心の趣を、よくよく人に尋ねて、極楽往生できる身になりなさいと、蓮如上人はいわれています。
またその際も、

心中を遺さず語りて、真実信心に基くべきものなり。(御文章4帖目8通・八箇条)

心の中を遺さず打ち出して、真実信心をはやく獲得せよといわれています。

そこで、反駁する(論じ返す)心、躊躇する心という言葉が出てきました。

重ねてお尋ねします。

  1. 「何に」対して「どのように」反駁するのでしょうか?
  2. 「何に」対して「どのように」躊躇するのでしょうか?

自分のことですから、これは私に聞かれてもここはわからないところです。
自分の心を見つめるとは、こういうときに見つめるのです。