安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後ろ髪引かれる心とは?(カナダ人さんのコメント)

カナダ人さんよりコメントを頂き有り難うございました。

1.「何に」対して「どのように」反駁するのでしょうか?
2.「何に」対して「どのように」躊躇するのでしょうか?
とのお尋ねに対して自分の心を見つめてうち出させて頂きます。
1.2共に「何に」とは、「阿弥陀仏のただ今救う本願(南無阿弥陀仏)に」ということです。
1.2共に「どのように」とは、うちまかせよう、五体投地しよう、飛び込もうとするときに、疑情(ただ今救う本願を疑っている心、信じられない心、分からない心)が気になって、後ろ髪を引かれるような思いになり、うちまかせようとする私の心を引き止めて進ませない、というようなことです。
ただ今救う本願に向かい、うちまかせようとするとき、疑情がその私の心の邪魔になり、その結果タノム一念になれない、という一連の中でおきた心や感じたことを言葉で正確に表現することは難しいことですが、それが反駁する心であり躊躇する心です。山も山さん、よろしくお願いします。
(カナダ人さんのコメント)

心の中を打ち出して頂き有り難うございました。
南無阿弥陀仏に飛び込もうといっても、実際に飛び込む人と、飛び込むのを予想しているのとでは、心が同じではありません。

水泳に高飛び込みという競技がありますが、テレビ中継などで「高いところから飛び込むのは怖いだろうな」と思うのと、実際に自分が飛び込むときは、同じ「怖い」でも、「怖い」が違います。前者は、想像上の「怖い」ですが、後者は本当に自分の心に起きる「怖い」です。
疑情が阿弥陀仏の救いを妨げているといっても、「疑いなのか」と思っている「想像上の疑い」と、実際に弥陀の救いに向かった人自身の心に起きる「疑い」は違います。

そこでさらにお尋ねしますが
「後ろ髪を引かれるような思い」とか「私の心を引き留めて進ませない」というのは、どういう心でしょうか?
なにか気がかりになって、進めないと言うことでしょうか?

よろしくお願いいたします。