安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「弥陀をたのめ」「まかせよ」といわれますが、どうたのめばよいか、どうまかせたらよいかまでは本願にないのは少々不親切に感じます。(頂いた質問)

「弥陀をたのめ」「まかせよ」といわれますが、どうたのめばよいか、どうまかせたらよいかまでは本願にないのは少々不親切に感じます。(頂いた質問)

御文章にはたびたび弥陀をたのめと書かれています。この弥陀をたのめというのは、阿弥陀仏が私に「あて力にせよ」「まかせよ」といわれる仰せを、聞き入れることです。本願の仰せをその通りと聞いたことですから、言い替えると信心のことです。


阿弥陀仏が本願にいわれていることは、「本願を信じ、念仏するものは必ず浄土に往生させる」です。その「信じ方」というのは、本願にはありません。なぜなら、信じるといっても、本願を聞いて疑いないことだからです。その本願は、現在南無阿弥陀仏となって私に差し向けられおり、現在も私が念仏申す形であらわれています。その南無阿弥陀仏を、目の前にというか、耳にすでに聞いている状態なわけですから、そこで「どうしたら聞けますか」というのは問題になりません。すでに聞いている南無阿弥陀仏を、その通りと聞いて疑い無い身になることです。


まだ、聞こえていない南無阿弥陀仏ならば「どうすれば聞けますか」という問いは成り立ちます。また、阿弥陀仏が「あて力にせよ」といわれていないのならば、「どうすればまかせられますか」という問いも成り立ちます。しかし、いずれもすでに私に、南無阿弥陀仏となり、「まかせよ」といわれているのですから、あとはその通りと聞き入れるだけです。


それらはすでに阿弥陀仏から、与えられるのだということを御一代記聞書にはこう書かれています。

(36)

一 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候 ふなり。
(現代文)
(36)

「『正像末和讃』に、
真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらはるる
真実信心の称名は、阿弥陀如来から衆生に回向された行であるから、法然上人はそれを衆生の側からいえば不回向であると名づけられて、自分の念仏を退けられた。
とある。
弥陀におまかせする信心も、また、尊いことだ、ありがたいことだと喜んで念仏する心も、すべて弥陀よりお与えくださるのであるから、わたしたちが、ああしようかこうしようかとはからって念仏すのは自力であり、だから退けられるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

私が「とやせんかくやせん」と考えるて念仏してもそれは自力です。そうして信じようとするのも自力です。自力では阿弥陀仏の浄土には往生できません。自力は捨てて、阿弥陀仏の与えるといわれるように頂いて下さい。