安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏一つで救うといわれますが、どうすれば救われるのでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏一つで救うといわれますが、どうすれば救われるのでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏一つで救うように、阿弥陀仏は本願を建てられました。南無阿弥陀仏の名号は、私を浄土往生させる働きがあります。名号は成就していても、私の上に信心となって働かねば浄土往生はできませんので、信心正因といわれます。

その真実信心が定まるときを、たのむ一念といわれます。蓮如上人は、そのたのむとはどういうことかについて、以下のように教えられました。

(189)
一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。(御一代記聞書・浄土真宗聖典(註釈版)P1291

親鸞聖人の教えはたのむ一念が肝要です。そのたのむということを蓮如上人は、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と教えられました。

ここで「雑行をすてて」といわれるのは、自力の心をすててということです。
「後生助けたまへ」は、阿弥陀仏の仰せを聞き承けることです。阿弥陀仏に対して祈願をすることではありません。阿弥陀仏が私の願いに応じて本願を建てられたのではなく、阿弥陀仏の方から先に私に対して本願を建てられました。
そのため、阿弥陀仏の救いは、私が祈願をして、その結果阿弥陀仏に救われるのではありません。阿弥陀仏が私に対して「後生まかせよ」「後生助けさせて下さい」と願われることを、私が聞き承けることです。そのことをまた「一心に弥陀をたのむ」ともいいます。

「雑行を捨てて」から「後生助けたまへ」と順番があるのではありません。阿弥陀仏に後生をまかせたことが、そのまま雑行を捨てたことになります。雑行を捨てたということは、阿弥陀仏によって自力を捨てさせれられたということです。

どうしたら救われるといっても、自分の行為はそこには何もありません。阿弥陀仏が「これ」で助けてくれなかったらどうしようと思うのは、「これ」をあてにする心です。それもまた自力の心です。自分は求道しているからいつか救われると思っている人でいえば、その思いも捨てものです。
自分の思いや行為が当てになるのなら、南無阿弥陀仏は私に先立って成就されたりはしません。

特に親鸞会会員の人にあてはめれば「雑行をすてて弥陀をたのめ」は、「求道を捨てて弥陀をたのめ」になります。
「求道」という「道」を進んだ先に救いがあるのではありませんから、その道を降りて南無阿弥陀仏を聞くのが救いです。