安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

雑行と諸善万行の関係と信仰のバロメーターについて(花さんのコメント)

花さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ご回答有難うございました。私がどうしたら救われるかが大事だと教えて頂きました。私が救われるには雑行をすてなければなりませんが,五雑行は捨てています、しかし諸善万行はどう捨てればよいのでしょうか?諸善万行を捨てるということは善を捨てると言うことだと理解していますが、善をどうすてればよいでしょうか?(花さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242899191#c1242947084

私はS会で長年求道してきましたが、求道のバロメーターとして深信因果を教えられ、廃悪修善の気持ちが強いほど求道が進んでいる。つまり善果がきた時は感謝し、努力する。悪果がきた時は懺悔し、こんな結果が二度と来ないよう努力する、感謝と懺悔の気持ちが強い人ほど求道が進んでいる。と聞かせていただきましたが、求道が進んでいるかどうかの判断は何によってきまるのでしょうか・・?(花さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242899191#c1242947860

回答します。
最初の、雑行をすてるとは、善をすてる(しない)とは違います。

それ、弥陀如来一仏を深くたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころを懸けず(御文章2帖目2通・すべて承引)

このようにいわれています。「諸善・万行にこころを懸けず」のであって、「諸善万行をせず」ではありません。
逆にいいますと「諸善・万行にこころを懸ける」上でする諸善が雑行であって、諸善そのものをさしていわれているのではありません。
「諸善・万行にこころを懸ける」とは、自力の心です。

身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。(末灯鈔)

自力とは、親鸞聖人がいわれるように、体、口、心の乱れを整えて、立派にしてそのことによって浄土に往生出来るだろう、浄土往生の足しになるだろうと思う心を自力といいます。
「諸善・万行にこころをかける」とは、自分のする諸善が往生の足しになる、早く助かるためになにか役に立つと思う心です。その心を捨てよといわれるのが、「諸善・万行にこころをかけず」といわれているところです。
私がただ今阿弥陀仏に救われるのは、全く阿弥陀仏の力によるのですから、私たちのやる善が往生の足しになるのではありません。
「諸善万行をすてよ」ではなく、「諸善・万行にこころをかけず」です。それを「雑行を捨てて」といわれているのです。どうすれば捨てられますかということについては、御文章にあるように「弥陀如来一仏を深くたのみたてまつりて」なのです。

次に、求道が進んでいるかどうかは、浄土真宗では問題になりません。
阿弥陀仏の本願は、ただ今南無阿弥陀仏を与えて死ねば往生浄土させるというお約束であって、「求道を進ませる」という本願ではありません。
親鸞聖人も、蓮如上人も「一日も片時も急いで信心決定せよ」とはいわれても、求道が進むようにしなさいとはいわれていません。

「廃悪修善の気持ちの強弱」を問題にして、「どれだけ善をするようになったか、どれだけ悪をしないようになったか」を問題にするのは「罪の有る無しの沙汰」と蓮如上人がいわれるものです。

罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。(御一代記聞書)

罪悪(善悪)がどれだけあるかを問題にするより、信心獲得したかどうか、ただ今弥陀に救われるかどうかを問題にしなさい、沙汰しなさいといわれています。

このようにいわれるのも、親鸞聖人がこのようにいわれているからです。

罪福ふかく信じつつ
善本修習するひとは
疑心の善人なるゆへに
方便化土にとまるなり(正像末和讃)

罪福深く信ずるとは、花さんの質問の言葉で言えば因果の道理を深く信じて、罪を恐れ、罪を作らないようにしよう、福をもとめて、善いことをしようとする人のことです。そういう人は、「善悪が往生と関係有る」という心が離れないので、その上で念仏称えていても、疑心の善人であり、疑情(自力)がなくなっていませんから、浄土には生まれることはできないのだといわれています。
仮に深信因果で、廃悪修善に励む人があったとしても、その善根で浄土には生まれることは出来ません。浄土に生まれることはできないということは、信心獲得できないということであり、ただ今弥陀に救われることはないということです。
阿弥陀仏も、お釈迦様も、親鸞聖人も、蓮如上人も、「化土へ生まれよ」とはいわれていません。「弥陀の浄土へ往生せよ」「信心獲得せよ」といわれています。

もちろん因果の道理を深く信じ、廃悪修善につとめることはとても大事なことです。それは信前信後通して大事なことなのです。
ただ、信心獲得と、廃悪修善の心の強弱を関係づけることはできません。求道が進むかどうかではありません。ただ今阿弥陀仏に救われるかどうかが問題なのですから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。