安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

種々に方便されるから「型」はありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

起きているとのご回答をいただきましたので、それでは、菩提心が起きていても、弥陀の浄土に生まれたくないと思う心もあるということですね。「弥陀の浄土に生まれたくない」「仏法を聞き求めようという心もない」のが本来の私であり、「弥陀の浄土に生まれたい」とか「仏法を聞き求めようと思っている」心は阿弥陀仏によって起こさせられている心だということですね。分かってきました。有難うございました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090606/1244273938#c1244294284

お尋ねのコメントではありませんが、追加でエントリーします。
「菩提心が起きているかおきていないか」ということは、救いの条件ではありません。
阿弥陀仏の救われるのには「菩提心が起きていなければならない」「○○でなければならない」という条件はないということです。
Kさんもコメントされているように、阿弥陀仏から起こされるものです。
何もしなくてよいということではありませんが、救いに「型」はありません。
「○○でなければ」
「○○しなければ」
「○○と思えなければ」
救いにあえない、求道が始まらない、ということではありません。

釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり(高僧和讃)

その人その人、機に応じて導かれるのが阿弥陀仏であり、お釈迦様です。
誰がどんなように救われたという話や、自分の想像する求道体験に当てはめようとすれば、当てはめて救われたとしてもそれは、私ではありません。
私を変形させて、型にはめた別の私です。それでは、私が救われることにはならないのです。

追記

あれ?さんから、コメントを頂きましたので、分かりにくいところについて加筆します。

菩提心をおこした人しか浄土に生まれることはできないと親鸞聖人は教行信証に書かれているがあれはウソか。(あれ?さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090607/1244375318#c1244377850

これについては、なまえさんのコメントでわかりやすく解説をされているのでそちらをご覧下さい。

「菩提心」については、親鸞聖人が真実信心でいわれる(横超の)菩提心、と(自力の)菩提心と言葉がかぶってしまうので、ただ菩提心と書いた場合は誤解をされることがあると思いました。
今後は、誤解されるような書き方がないようにいたします。
お気づきの点がございましたら、勉強不足なので、いつでもあれ?さんのように指摘していただければ幸いと思います。
これからもよろしくお願いいたします。

※参照

親鸞聖人は菩提心に竪と横の二つに分けられ、
また、竪出、竪超、横出、横超の菩提心を教えられました。

その中で親鸞聖人は、横超の大菩提心を真実信心と、
教えられました。

菩提心釈でこのように教えられています。
「願作仏心は即ち是、横の大菩提心なり。
これを横超の金剛心と名づくるなり。」

一心転釈では、
「是の心は即ち是、大菩提心なり、
是の心は即ち是大慈悲心なり、この心は即ち是れ、
無量光明慧によりて生ずるが故に」

「菩提心をおこした人しか浄土に生まれることはできないと親鸞聖人は教行信証に書かれている」場合の菩提心は、真実の信心の事です。弥陀より賜る平等の信心の事です。
ここで、山も山さんが救いの条件にならないと言われているのは、
横超他力の大菩提心ではありません。
信心を要とす、ですから、真実の信心が起きてなければ助かっていません。
浄土には参れません。

今回、山も山さんが、救いの条件ではないと言われている菩提心は、
各人各様の、信前自力の菩提心、あるいは横出の菩提心ですから、どんな尊い事を思おうがなんだろうが自力の信心ですから、それで救われるのではありませんから、救いの条件にもなりません。

教行信証では、涅槃の真因は、横超の菩提心=弥陀如来廻向の真実の信心と明らかですから、ウソではありません。
また、自力の菩提心、自力の信心を起こしたから救う、という本願でもないのですから、
山も山さんも間違っていません。(なまえさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090607/1244375318#c1244386193