安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「浄土宗の人は愚者になりて往生す」との法然聖人のお言葉について解説して下さい(頂いた質問)

「浄土宗の人は愚者になりて往生す」との法然聖人のお言葉について解説して下さい(頂いた質問)

お尋ねの法然聖人のお言葉は、末灯鈔に書かれています。

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑えませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり。(親鸞聖人御消息 - WikiArc16・末灯鈔6・浄土真宗聖典註釈版P771)

これは親鸞聖人が晩年にお手紙で書かれたもので、かつて法然聖人が仰ったこととして「たしかにうけたまはり候」と言われています。


ここで「愚者になりて往生す」というのは、いわゆる頭の善し悪しや、学問上のことを知っているとか知っていないということではありません。実際に法然聖人は、大変な学者ですから、今まで学問してきた事を忘れたから救われたと言われたものではありません。


そこでこの末灯鈔では、対比として「ものもおぼえぬあさましきひとびと」には「往生必定すべし」と微笑みながらご覧になったと言われています。「文沙汰して、さかさかしきひと」には「往生はいかがあらんずらん」と言われています。


「文沙汰して、さかさかしきひと」とは、色々と学問をして法然聖人に議論を持ちかけてくるような人たちや、賢者ぶっている人を指しています。こういう人を「往生はいかがあらんずらん」と言われたのは、自分の智慧を磨いていくことが救われる事に直接関係していると考えている人のことです。



この末灯鈔は、以下の法然聖人のお言葉を使われたものとされています。

聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる (西方指南抄 - WikiArc21浄土宗大意)

聖道門では、修行によって自らの智慧を磨いて迷いを離れていくけれども、浄土門は愚痴にかえって極楽へ往生すると言われています。


聖道門では、学問や修行する事がさとりを開く道ですが、浄土門は違います。阿弥陀仏の救いは自分が賢いかどうか、愚かかどうかと言う事には関係がありません。自分の身の上の善し悪しが救いに関係すると思っているが、末灯鈔で言う「文沙汰して、さかさかしきひと」のことです。そういった自分の身の善し悪しに囚われず、自分にはそのような力はないのだと知る事を「愚者になりて」とか「愚痴にかえって」と言われています。いわゆる機の深信のところで信心について書かれたのが「愚者になりて往生す」のお言葉です。


そのことを一枚起請文では、こう言われています。

念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。(一枚起請文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1429)

念仏を信ずる人は、たとえ仏教をよく学んだとしても、漢字を一文字も知らない愚かな身となって、賢い人の振る舞いをせずに、ただ念仏しなさいと勧められています。


私たちは、とかく仏教を学んでいくといろいろな知識が身につき、以前よりもよく「分かった」気になります。もちろん教義理解としては事実として「分かった」ことに間違いはありません。ただ南無阿弥陀仏を信ずるには、そのような「分かっている」という智者のふるまいが妨げになります。


どれだけ「分かった」としても、それで生死を離れることができないのが私というものです。しかし、そう思えないところに自分の「分かった」を当てたよりにするのが自力と言われるものです。自分は、現在どうやっても生死を離れる事ができないものと信知することを機の深信と言います。その上では、我が身をたのみ、自分の頭の善し悪しや、学問の有無、罪の有る無しを基準として阿弥陀仏は救ってくださるのかどうかを考える自力を離れます。


そのことを、また法然聖人はこのように言われています。

念仏の行者は、みおば罪悪生死の凡夫とおもへば、自力をたのむ事なくして、たゞ弥陀の願力にのりて往生せむとねがふ(西方指南抄 - WikiArc要義十三問答・11

そんな「罪悪生死の凡夫」は、賢くなるとか善人になるとかいったことで救われるかどうかを考える自力を離れて、ただ弥陀の願力にまかせなさいと言われています。


この私に阿弥陀仏が選び取ってくださったのは念仏ですから、一枚起請文では「智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」と言われています。「智者のふるまいをしないようにしよう」と考えるのもまた「智者のふるまい」です。
ただ南無阿弥陀仏と念仏するのが、「愚者になりて往生す」といわれたことです。