安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私を救ってくださるのは「いわれ」ではなく、本願招喚の勅命です。」と教えて頂きましたが、これは喩えると、薬(南無阿弥陀仏)と効能書き(いわれ)のような関係でしょうか?(Peing-質問箱-)

Peing−質問箱-より

2023-08-11のエントリーで、 | Peing -質問箱-

質問に出てくる記事はこちらです。
anjinmondou.hatenablog.jp

質問箱には、以下のように書きました。

お尋ねのように、薬と効能書きのような関係になります。
もう一つは、「称名念仏を忘れるな」ということでよいです。
称名正因の異安心とは、正確には「私が称名するという私の行為(具体的には口を動かす事)が往生の業である」という間違いです。
称名念仏そのものは私の行ではなく仏様の働きそのものであるという意味で使われますので

これに加えて書きます。

「南無阿弥陀仏」と「南無阿弥陀仏のいわれ」の関係

質問文にもありますが、2023-08-11のエントリーには以下のように書きました。

聴聞するときは、「南無阿弥陀仏のいわれ」を聞くわけですが、「南無阿弥陀仏」を忘れて「いわれ」だけを理解しようとはしないでください。私を救ってくださるのは「いわれ」ではなく、本願招喚の勅命です。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2023/08/11/052046

南無阿弥陀仏のいわれというのは、薬に対する効能書きのようなものです。どうしても、「いわれ」がより分かったほうが救いに近づけると考えます。それが高じると、「ものすごくいわれが分かった!」と感激するとそれが信心であると誤解する人もあります。

確かに、今まで知らなかったことを聞いて「そうだったのか」と感激することはあると思います。私のように、親鸞会からしか話を聞いた事がない人は、伝統教団の先生の話を聞いたり本を読むと「全然聞いた事がない」ことがたくさんあります。そのような状態の人ほど「そうだったか」の感動は大きいものです。

しかし、それは「分かった」ということであって信心ではありません。効能書きにどれだけ精通しても、薬は飲まないと病気は治りません。

「称名念仏」と称名正因の異安心について

「『南無阿弥陀仏』を忘れて」というのは、「称名念仏を忘れるな」ということでしょうか?
であれば、称名正因の異安心に取られかねないような気がするのですが(質問より)

念仏ということをいえば、すべて称名正因の間違いになるのではありません。

しょうみょうしょういん 称名正因
行者の口業である称名念仏を往生成仏の正因とする理解、口称正因の邪偽などともいい、真宗では異安心とされる。そのなかでも信心の有無を論じないものを無信単称という。(浄土真宗辞典

こちらにあるように、私の「口業」「口称」が往生する正因とするものが、称名正因です。さらに、信心ということを全く言わず口業で「南無阿弥陀仏」と発声したことで往生成仏するというのが無信単称といわれるものです。


「何が」私を浄土に往生させ仏にするのかといえば、「私の口業の功徳」ではありません。南無阿弥陀仏そのものの功徳によります。

浄土真宗辞典より「称名」のところから抜粋します。

しょうみょう 称名
(略)
(法然は)『選択集』に「名号はこれ万徳の帰するところなり」(選択本願念仏集 (七祖) - WikiArc・P1207)と述べ、衆生が往生できるのは称えた功によるのではなく、称えられる名号の功徳によるとした。親鸞は、真実行を明かす「行巻」において、称名とは本願のはたらきが衆生の口に現われ出てきたものであることを明らかにした。
(略)

ですから、「称名正定業」といわれます。「正定業」といっても「正因」といっても意味は同じです。

正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(顕浄土真実行文類 - WikiArc・P186)

親鸞聖人は、選択本願念仏集から行文類に引文されています。ここでは「正定の業」とは「仏の名を称する」(称名)であるといわれています。
ただ「称名正因の異安心」という言葉が広く使われるようになってきたので、「称名は正定業であって正因ではない」という言い方をする方も出てきました。

また「親鸞聖人は信心正因であって称名正因ではないのだ」という人もあります。

しかし、名号も信心も念仏も本質的には同じ事であって別のことをいわれているのではありません。

先の選択本願念仏集の引文から言えば、称名念仏を離れた救いというのはありません。「何が」私を救ってくださるのかといえば、南無阿弥陀仏であり、それは私の口から出て下されると念仏となります。「本願招喚の勅命」ともいわれますが、本質的には同じ事を言われています。