安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願の唯除五逆誹謗正法の『唯除の文』について、親鸞は『罪を作らせないように戒めた言葉』という解釈をされているようなことを聞きました。かなり苦しい解釈、または強引な解釈のように思えます。そう解釈しないと、一切の衆生を救うことになりませんから、そういう解釈をしているのでしょうか。」(ことりさんのコメント)

ことり  2024-02-24 06:48

本願の唯除五逆誹謗正法の『唯除の文』について、親鸞は『罪を作らせないように戒めた言葉』という解釈をされているようなことを聞きました。
かなり苦しい解釈、または強引な解釈のように思えます。
そう解釈しないと、一切の衆生を救うことになりませんから、そういう解釈をしているのでしょうか。
『除く』という言葉を素直に取ってしまうと駄目なのはもちろんですが、絶妙な説明、なるほどそうかとしっくりくるような説明ってないものなのでしょうか。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2024/02/23/072945

ことりさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。


親鸞聖人が、当該の箇所について書かれたものは以下のものです。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(
尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P644)

ただこのご文を読みますと、「罪を作らせないように戒めた言葉」という意味で書かれたものではありません。もちろんそういう意味も含まれますが、それが主眼ではないという事です。


阿弥陀仏の本願*1は、十方衆生を救うと誓われています。その一方で「唯除五逆誹謗正法(ただ五逆と誹謗正法とをば除く)」とありますから、全ての人を救うと誓われながら、除かれたものがいるということはどういう意味だろうかと考えてしまいます。


そこで「罪を作ったものは救わないぞと言う事で罪を作らせないようにする為にいわれたもの」という解釈もあります。ただそれは、「罪を作らないようち戒めて」作らないものを救う為ではありません。


人間はいろいろな人がいますので、すでに罪を作った人もあれば、まだ作っていない人もあります。まだ作っていない人には戒める意味もありますが、すでに作っている人に「自分はもう除かれてしまったから助からない」と受け取る人もいるかと思います。


親鸞聖人は「このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」五逆と誹謗正法の罪を示す事で、その罪の重さを知らせて、私を救おうとされているのだと言われています。


法というものを受け入れず、自分中心に物事を考えることによっていろいろと苦しみを抱えています。その意味で、法を否定するものがそもそも誹謗正法と言う事になります。それが「重い罪だ」と知らされるのは、法の尊さを知る事ができた上でのことです。その意味で、「誹謗のおもきとがをしらせんとなり」とは、法を受け入れない私に厳しく法を受け入れ回心せよと勧められている意味となります。


そのように法を受け入れる人はまた、必ず阿弥陀仏が私を救う法であると聞き入れていると言う事になりますから私を救うことを示されたご文です。

『除く』という言葉を素直に取ってしまうと駄目なのはもちろんですが、絶妙な説明、なるほどそうかとしっくりくるような説明ってないものなのでしょうか。(ことりさんのコメントより)

「除く」という言葉は、私の側から言えば「除くと言われるような法を受け入れないもの」と知らせるお言葉ですし、阿弥陀仏の側から言えば「五逆と誹謗正法の者を悲しみそれを知らせる事で回心せよ」と告げられる大慈悲からいわれたものです。
そのように法を知らせ受け入れるままが、私を必ず救うと言われたものです。