安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏の本願は、念仏を称える人、法を聞く人、が前提となる、条件付きの本願なのでしょうか?」(Peing質問箱)

質問箱より
参照

2022-07-21
「お救いに条件は無いというが、本願に疑いが無いというのは条件になりませんか?私が自分で疑いを捨てることはできないので、阿弥陀様の仰せをそのまま聞いたら結果的に無疑の状態だったということでしょうか」(Peing質問箱より) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
2016-12-10
「「南無阿弥陀仏」は救いの条件でなく、救いへの感謝であるならば、救いを理解する・信知するという条件は必要になってしまうのではないでしょうか。いや、「救い」には条件がないが「救いを実感する」には条件があるということでしょうか。」(求道者Kさんのコメントより) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

質問箱には以下のように書きました。

阿弥陀仏の本願には、年齢や性別、善悪ということを条件としてそれが制約となって救われるかどうかが分かれるということはありません。そういう意味で条件はありません。すべて他力によるという説明をするときは、私の方には何もないので条件はありません。

ただ、本願で『本願を信じ念仏するものを救う』と言った時は、こういう手だてをもって救うということであって、その『阿弥陀仏が必要な手だて』という条件はあります。

これに加えて書きます。

「無条件」と「条件付き」について

この記事を書く際には、辞書にそってこのように定義しています。

無条件
何の条件もつけないこと(新明解国語辞典)

条件付き 
その物事が成立するためには、提示された条件が満たされることが不可欠だという前提があること。(新明解国語辞典)

「法を聞く」は「条件付き」となるのか?

「法を聞いて救われる」という言い方をすると、条件付きとなってしまいます。ただ、正確にいうと「法を聞く」と「救われる」の関係は、因果関係ではなく「聞即信」といわれるような「聞」がそのまま「信」となり、「信」は「聞」によってあらわされるような関係です。

それについては一念多念証文に親鸞聖人がこのように書かれています。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P678)

これは阿弥陀仏の方から言えば、「聞かせる」そのままが「救う」ということになります。聞いた人から救っていくという、条件付きの救いではありません。

「念仏を称える」は「条件付き」となるのか?


次に、念仏を称えることと、「信心」の関係について書きます。
「念仏を称える行為」によって、信心を獲るというような因果関係はありません。
「念仏」と「信心」は、分けて考えることができないので、このように御消息に書かれています。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(親鸞聖人御消息 - WikiArc
・末灯鈔11・浄土真宗聖典註釈版P749)

信心と念仏と、言葉で書けば二つになりますが、信心を離れた念仏もないし、念仏を離れた信心もありません。その理由は、念仏というのは、阿弥陀仏の本願によって成就した名号(南無阿弥陀仏)を一声となえて往生すると聞いて、一声となえまたは十声称えることを行といいます。その念仏往生の本願を聞いて、疑う心が少しもない事を信心というので、信心と念仏と二つと聞いても、念仏を称え聞いて疑わねば、念仏を離れた信心もないと聞きました。また、信心を離れた念仏もないということです。


信心が因となり、念仏が結果として出てくるものでもなければ、念仏が因となって信心が出てくるというように二つに分けることができません。
「念仏往生の願と信ずる」のが信心ですし、『念仏往生の願と信じて念仏する人』は必ず浄土に往生します。
そのことを、同じく御消息にこのように書かれています。

されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(
親鸞聖人御消息 - WikiArc・末灯鈔12・浄土真宗聖典註釈版P785)

「無条件」は、どういう場面でのことなのか。について

「無条件の救い」と言う言葉は、阿弥陀仏が差別をされないという意味で使われることが多いと思います。しかし、そう聞くと「差別なく救ってくださるのならば、なぜ私は救われないのか?」「なぜ救われた人と救われない人がいるのか?」という疑問が起きてきます。


元々「無条件」という単語そのものは、最近使われる用語であってお聖教にそのまま出てくる言葉ではありません。ただ、その言葉を耳にした時に現代の私たちは、上記のようなことを反射的に考えて疑問を起こします。

しかし、「無条件の救い」というのは、意味合いとしては「無条件降伏」の「無条件」の方が意味になります。「無条件降伏」と言った時は、「降伏勧告」が相手方から出された時に、受けるほうがそれに対してあれこれ条件をつけない(無条件)で受け入れることをいいます。

阿弥陀仏はすでに、南無阿弥陀仏となって私を救うと喚びかけ働いておられます、それに対して私はあれこれ条件をつけずに(無条件)に受け入れたのが救いです。

念仏称えた人が、条件をクリアして救われるというものでもありません。法を聞いた人が、条件をクリアして救われるのでもありません。

すでに私を助けるためにただ今働いておられるので、南無阿弥陀仏が働いてくださるまでの条件はありません。私の側から言えば、無条件に聞き入れる以外にないので、そういう意味での無条件の救いとなります。