安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「聞其名号」とは、「私が耳をすましてお救いの南無阿弥陀仏をきこうとする」というよりは、「お救いの南無阿弥陀仏がもう既に私に聞こえていたということに気付く」といった方がよいのでしょうか?「Peing-質問箱-より)

peing-質問箱-より

願成就文の「聞其名号」は私が救われるための大事な御文だと思いますが、ではその「聞其名号」とは、「私が耳をすまして | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

南無阿弥陀仏をすでに称えた事もあり、南無阿弥陀仏のいわれを聞いてきた人からすれば、「すでに聞いていた事実」があります。
すでに聞いていたことではあったけれども、それがその通りだったと知らされるというのが事実に近い表現だと思います。

これに加えて書きます。

「聞其名号」については、親鸞聖人はこのように書かれています。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり(一念多念証文 - WikiArc.浄土真宗聖典註釈版P678)

「聞其名号」とは、文字通り「本願の名号を聞く」ことです。
耳をそばだてて聞こうとするのは、未だ本願の名号をきいたことがなく、これから聞こえてくるだろうという考えなので間違いです。

質問に

「お救いの南無阿弥陀仏がもう既に私に聞こえていたということに気付く」

とあるように、この記事を読んでいるような方は、既に本願の名号を聞いたことがあります。

名号が私の口から出てきてくださる相が念仏といわれるものです。ですから、一声南無阿弥陀仏と念仏するということは、称えられた南無阿弥陀仏を耳で聞いていることになります。

ただ何度となく称えて聞いていても、この南無阿弥陀仏の名号が私を救うとの勅命と思えず、他の何かが聞こえてくださるように思うのが「疑い」です。あるいは自分の何かを良くしなければ聞こえてくださらないと思うのも疑いです。


すでに阿弥陀仏が、私にただちに来たれと呼び続ける声が南無阿弥陀仏です。その喚び声が私の口から出てくださることで称え聞いているのが念仏です。念仏するものを救うとの本願ですから、それをその通りと聞いて疑いないことを信心といいます。

その意味では、
「お救いの南無阿弥陀仏がもう既に私に聞こえていたということに気付く」
というよりは、
「既に聞こえていたと南無阿弥陀仏が救いの法そのものであったと知らされる」
という方がよいと思います。