安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心の沙汰と安楽イスについて教えてください」(頂いた質問)

信心の沙汰と安楽イスについて教えてください(頂いた質問)

信心の沙汰とは

信心の沙汰とは、自分の信心は、他人の信心はどうかという話し合いの場のことをいいます。信心の有無の沙汰をすることをいいます。

蓮如上人の御文章にはそのことが書かれています。

しかるに当流において毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、在家無智の身をもつて、いたづらに暮しいたづらに明かして、一期はむなしく過ぎて、つひに三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、言語道断あさましき次第なり。所詮自今以後はかたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。(御文章 (一帖) - WikiArc十二通・年来超勝寺・浄土真宗聖典註釈版P1102)

毎月の講とよばれた会合では信心の沙汰をしなさいと言われています。

安楽イスとは

安楽イスとは、自分自身が「これで救われてしまったのだ」と自分で決めた信心に座り込んでしまって、疑いない状態をいいます。本人にとってとても楽な状態なので、安楽イスとも言われています。

蓮如上人の時代から、今日に至るまでこの安楽イス状態の人はいます。問題は、自分で決め込んでしまっているので、自分自身ではその状態に中々気がつかないことです。法座に足を運んでも、また自分の気持ちに引き寄せて得手に法を聞いてしまうので、やはり信心の沙汰でないと自分の間違いに気がつきません。

安楽イスの人は尋ねない

時代は変わっても、安楽イス状態の人は同じような振る舞いをします。

一 仏法の由来を、障子・かきごしに聴聞して、内心にさぞとたとひ領解すといふとも、かさねて人にそのおもむきをよくよくあひたづねて、信心のかたをば治定すべし。そのままわが心にまかせば、かならずかならずあやまりなるべし。ちかごろこれらの子細当時さかんなりと云々。(御文章 (四帖) - WikiArc六通・六カ条 浄土真宗聖典註釈版P1176)

聴聞していって「私分かってしまいました」ということが会ったとしても、その信心を人に尋ねなさいと言われています。こう書かれているのは、こういう人ほど人に尋ねないからです。しかし、人に尋ねず自分の心だけにしたがっていれば「かならずかならずあやまりなるべし」と言われています。ここまで言われると言う事は、やはり自分自身では間違いに気がつかないからです。

安楽イスの人は自信に満ちあふれる

人に尋ねないで喜んでいる人ばかりではありません。「自分ほどわかっている者はいない」という言動をとる人もいます。

仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆゑをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは仏法の根源をよく知り顔の体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁の端、障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつて、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、第一に驕慢のこころにあらずや。(御文章 (三帖) - WikiArc十二通・宿善有無・浄土真宗聖典註釈版P1157)

時間をかけて学んだと言う事もなく、自然と聞き覚えた教えによって「私ほど仏法を知っている人はいない」と思い、それだけでなく真宗の教えを正しく伝える人を見て批判をする人がいると言われています。「われひとりよく知り顔の風情は、第一に驕慢のこころ」だと言われています。

なぜ安楽イス状態は自覚が難しいのか

安楽イスと言う言葉は、先達の方々の聞法の経験から出てきた言葉です。安楽イス状態から脱した時に、自分は安楽イスに座っていたのだと初めて気がつきます。
では、なぜ無自覚に安楽イスに座ってしまうのでしょうか。

一言で言えば「嬉しいから」です。
何をもって信心とするかは、安楽イスの人にも色々あります。「分かった」という人もあれば「こんな体験をした」という人もあります。しかし、とどのつまりは「分かったから嬉しい」「こんな体験をしたから嬉しい」「有り難いから嬉しい」等々、「嬉しい」のです。

その「嬉しい気持ち」自体はウソはないので、周りの人も「嬉しい気持ちそのもの」をあれこれ言う事は出来ません。「私嬉しいんです」と言われれば、「そうですか。嬉しいんですね」としか言い様がありません。
また、「あなたの信心は本当に間違っていませんか?」と聞いてみても、そういう人はえてして「私の嬉しい気持ちにウソはありません」ということと「私の信心にウソはありません」が本人の中で未分化な認識です。その為、「私の信心(嬉しさ)は間違いありません」と回答します。
周りの人も「あの人は有り難い方らしい」と思いはじめると、ますます気がつく機会がなくなってしまいます。

信心の沙汰は、基本的に「信心の有無の沙汰」

信心の沙汰とは、最初にあげた御文章にあるように「わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰」と有るように、信心の有無についての沙汰する場です。法話の復習会ではありません。

「私の信心はこうである」と言う人と「私の信心はこうである」という人が話し合う事で、自分の信心が浄土真宗で言われる信心なのかそうでないかをお互いに聞く場となります。
そこで大事なのは「語る」ことです。「自分は分かっている」という人ほど自分の信心を語ることです。
もちろん、まだ信心というものがよく分からないという人はそのことを思ったまま語ることが大事です。

似たような安楽イスに座っていた人は、現在安楽イスの人が思った通りを語るとすぐに分かります。面と向かって言いにくいことでも、信心の沙汰という「場」があると言えるものです。また、そういう場で無ければ「嬉しい」人の信心は自ら崩れると言う事は難しいです。特に聴聞の場から足が遠のくと気がつく機会がそもそもありません。

今「嬉しい」人ほど、人に自分自身の信心をよくよく語り、人の信心も聞いてみてください。
聞く場がなければ、このブログで尋ねてみて下さい。