安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分はただ念仏をとなえるだけで、救いなど後は全て阿弥陀仏のお仕事ということでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱

自分はただ念仏をとなえるだけで、救いなど後は全て阿弥陀仏のお仕事ということでしょうか? | Peing -質問箱-

質問箱には以下の回答を書きました。

念仏を称えることは、私が南無阿弥陀仏と呼ばれていることに応える形となっています。
私が南無阿弥陀仏と称えることと、阿弥陀仏の救いの働きは別のことではありません。

これに加えて書きます。

質問された方の意味から言えば、「念仏を称えるのは私の仕事」「助けるのは阿弥陀仏の仕事」と分類をされているのだと思いますが、そのように分けられるものではありません。

私が南無阿弥陀仏と念仏するのは、自分で称えようと思って称えています。ただその「南無阿弥陀仏」は私が考えたり生み出したものではありません。

それは私が自分の名前を口にする時「名前を言おう」と思って口に出すのは私ですが、「名前そのもの」は私が考えたものではないのと同じです。

南無阿弥陀仏は、名号と言われる阿弥陀仏の名前です。名前と言っても、その名乗りには阿弥陀仏が私を救うための願いも働きも全て収まっています。収まっていると言うと何かパソコンやスマートフォンに入っているデータのように感じますがそうではありません。現在私を救う働きが実際にあり、現在働いておられます。

それを私に呼びかける形となって私に届けられているのが、南無阿弥陀仏です。親鸞聖人は「本願招喚の勅命」とも言われています。
なぜ仏の名前が呼び声なのかと言えば、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の名前であると同時に私の名前でもあるからです。阿弥陀仏は、私の名前として「南無阿弥陀仏」と呼び続けておられます。

何物でもない私に、何者にもなれない私に、汝は仏になるものだと私の名として南無阿弥陀仏と呼び続けておられます。その名を称えるのが念仏です。その南無阿弥陀が仏の名であり私の名であると聞き入れた上は、私は浄土へ参らせていただき仏とさせていただきます。

そういう意味で、南無阿弥陀仏と称えることと、阿弥陀仏の救いは切り離せるものではありません。

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
顕浄土真実行文類 - WikiArc・浄土真宗聖典(註釈版)P186)

念仏は私の行ではありません。私が自称「仏になるもの」と言っても中身は伴わないのと同じことです。阿弥陀仏が本願によって「汝は浄土へ往生して仏になるもの」と名乗られたのものですから、念仏成仏すべしと言われています。