私達は、亡くなったら人間に生まれるのは 何億光年とかかり、それくらい難しく | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
「信心決定」するためではなく、「仏になるため」だと教えられるのが浄土真宗です。
信心決定の言葉は、御文章に出てくるので御文章から引用します。
これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。(略)
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(御文章 (一帖) - WikiArc11通・浄土真宗聖典註釈版P1100)
こちらでも「信心決定してまゐるべきは安養の浄土なり」「信心決定して(略)今度の一大事の往生をよくよくとぐべき」とあります。
浄土に往生して仏になることを勧めておられます。そのために「信心決定して」といわれています。
信心決定は「しなければならない」こと?
質問の文面からすると「信心決定しなければならない」と聞いてきて、それは本当なのだろうかということを考えておられるのではないかと思いました。それが「生きる意味なのだ」と聞いて疑問に思われたのだと思います。
阿弥陀仏が本願を建てられたのは、生死を重ねてそこから離れられない私に対して慈悲を心を起こされたからでした。
しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(観経疏 玄義分 (七祖) - WikiArc・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P312)
ここでは水におぼれている人を岸の上の人が助けるようなものだと譬えられています。
仏様の慈悲心というのは、溺れている人の苦しみが自分の苦しみと受け止められるので、その苦しみを除くのに「しなければならない」という義務感はありません。「なぜ助けるという願いを起こされたのですか?」と尋ねれば「苦しかったから」というものです。
同じように、なぜ私が仏法を聴聞して浄土往生をしようと思うのかと言えば、今のままでは生死を離れることが出来ないからです。それは自分にとって苦しいことだからです。
苦しみを離れるのに「しなければならない」ということはありません。
その意味で「信心決定の為に生きている」ということではなく、「生死を離れたいと思って生きている」のが私です。しかし、どれだけそう思っていても自分の力で生死を離れることが出来ないのも私です。そのための本願を建てられたのが阿弥陀仏です。
阿弥陀仏は私を助けようと働いておられます。その願いを聞いて疑い無い身になることを信心決定といいます。
阿弥陀仏の願いは「信心決定」ではなく、私が「浄土往生して仏になる」ことです。その意味で質問箱に最初に書きました。
なぜ仏教を聴聞しているのかと言えば、何かの目的を達成するためという「べき論」ではありません。先に書きましたように「苦しいから」です。その苦しみに慈悲を起こされた阿弥陀仏の願いを聞くのが、仏教を聞くということです。