安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「『南無阿弥陀仏を私の往生の定まりたる証拠といただけたことを他力に遇えたっていうんです』とお聞きすることがあります。私にはどうもすっきりしません。信心決定したら南無阿弥陀仏が往生の証拠だとはっきりするのでしょうか?こういう私は信心決定していないのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-

『南無阿弥陀仏を私の往生の定まりたる証拠 | Peing -質問箱-

質問箱には、以下のように回答しました。

御文章にある言い方を示されたものですが、御文章にはそれ以外にも信心について書かれた言い方はいろいろとあります。
この「南無阿弥陀仏を私の往生の定まりたる証拠」ということだけが、信心を獲た人の味わいかということ、それだけということではありません。

これに加えて書きます。

南無阿弥陀仏が「往生の定まりたる証拠なり」の御文章

お尋ねにある御文章は、以下のものです。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章 (四帖) - WikiArc八通・浄土真宗聖典註釈版P1179)

この御文章は、南無阿弥陀仏は、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓われた本願が成就して、「その正覚すでに成じたまひしすがた」であると言われています。このように六字のこころを聞き入れているのが信心であるといわれているものです。

ただ、御文章にはこれ以外にもいろいろな書き方をされています。上記のすぐ後の御文章では、このように書かれています。


「阿弥陀如来をふかくたのみ」の御文章

このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。(
御文章 (四帖) - WikiArc九通・浄土真宗聖典註釈版P1180)

阿弥陀仏の本願を「罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と聞いて、「阿弥陀仏をふかくたのみ」「一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじき」ことが信心だと言われています。

南無阿弥陀仏と言っても、阿弥陀仏と言っても同じ事ではありますが、人によっては「阿弥陀さま」とか「親さま」とより「阿弥陀仏」という仏様に寄せた言い方をされる場合もあれば、「南無阿弥陀仏」「六字の名号」と名号に寄せた言い方をされることもあります。

ここでは「阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」と、阿弥陀仏という「仏様」に寄せた言い方をされています。

「なにのやうもいらず」「露ちりほども疑いなければ」の御文章

また、「疑いが露ちりほどもない」ことも強調されます。疑い無いというのは、こちらの計らいは全く要らないということを言われるものですが、そこでは「なにのやうもいらず」とか「なにのやうもなく」と書かれます。その一つは、以下のものです。

なにのやうもいらず、ただふたごころなく一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまゐらせて、後生たすけたまへとおもふこころひとつにて、やすくほとけに成るべきなり。このこころの露ちりほども疑なければ、かならずかならず極楽へまゐりて、うつくしきほとけとは成るべきなり。(御文章 (五帖) - WikiArc七通・浄土真宗聖典註釈版P1194)

ここで私の計らいは一切要らない(なにのやうもいらず)、また「露ちりほども疑いない」ことを強調されます。何に対してかといえば「ふたごころなく一向に阿弥陀仏ばかりをたのむ」ことであるといわれています。

こういうところから、信心については「露ちりほども疑ない」(無疑心)であることを強調されることもあります。
どれだけが正規表現ということはありませんが、その時その時によって強調されるところは多少の変わりはあります。


「信心決定したら南無阿弥陀仏が往生の証拠だとはっきりするのでしょうか?」について

「はっきりする」というのが、「疑い無い」という意味ではそうなります。
南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無いという意味では、こちらで「はっきり」するということは必要なく、すでにそうであるということにこちらであれこれいう必要はありません。

また「こういう私は信心決定していないのでしょうか?」については、この文面からはなんとも言い様がありません。
なぜなら、お尋ねの言い方をされる方について、どういう意味で言っているのかよく分からないというだけの場合もあれば、本願に疑いあってこのように尋ねられているか分からないからです。

本願を聞いて疑い無いという上で、どのように表現するかは人に依っていろいろ幅はあります。御文章のどの表現にも自分は当てはまらないというであれば、本願に疑いがあるということになります。