安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心獲得するには、二河白道の譬喩にあるような、「かならず可度すべし」や「すなはちみづからまさしく身心に当りて」といった一種の覚悟のようなものが必要なのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

信心獲得するには、二河白道の譬喩にあるような、「かならず可度すべし」や「すなはちみづからまさしく身心に当りて」と | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

覚悟は必要ありません。ただ人それぞれに心の変化がありますので、そのような心境になった人もいます。
必要条件として覚悟がなければならないということはありません。

これに加えて書きます。

「かならず可度すべし」と「すなはちみづから身心に当りて」は内容が異なるので分けて書きます。

「かならず可度すべし」について

質問にあった二河白道の譬喩の部分は以下の場所です。

すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P224)

ここは、旅人が水の河、火の河の河岸に立って目の前の白道・四五寸の前にしたときに出た言葉です。
後ろから群賊・悪獣が迫ってきます、河岸にそって南北に逃げようとしてもいつか悪獣・毒虫にいつか追いつかれてしまいます。西に進もうにも、白道は四五寸で恐らく水の河、火の河に落ちてしまう。

行くも死、帰るも死、留まるも死という、いわゆる三定死の場面に出てくる言葉です。

二河白道の譬喩では、この文章の直後に「この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く」「また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく」と、お釈迦さまのお勧めと阿弥陀仏の喚び声が書かれます。

こう読むと、信心獲得するには、まず三定死部分にあるような覚悟が必要だと思われるのも解ります。
私も以前そのように思っていました。

三定死はいつのことか?

いわゆる「三定死」をいつのことにするのかと考えるとき、「それは信心獲得の直前だ」とすると質問に有るような必要条件のようになってしまいます。

しかし、「この白道しか行く道はない」と思うのは、強弱あると思いますが、浄土真宗の教えによらねば救われる道はないとどこかで決断した時があると思います。それが広い意味での三定死です。

特別宗教に関心がなかった人が、なにかのご縁で浄土真宗の教えに触れて、「この教えで救われよう」「他では自分は救われない」と思ったことがあると思います。宗教といってもいろいろあるなかで、浄土真宗を選ぶということは、他の宗教を選択肢から除外しているわけですから、そこで自分の選択があります。「この道しかない」という覚悟がどかこにあったのではないでしょうか。

そのように「他では救われない」と心を決めたのが「三定死」です。
ですから、広い意味で「覚悟」はもうされているのだと思います。

そうして浄土真宗の教えを聞いても、なかなか救われないという時にいろいろと心境の変化はあります。人に依っては、より一段と強い「覚悟」を持つ人もありますが、そこは個人差です。「覚悟」といっても強弱あるので同一ではありません。すべての人が、仕事を一切やめて出家者のような暮らしをするわけではありません。

お尋ねされた方のいわれる「覚悟」というのは、まさに死を覚悟するような悲壮な決意のようなものを言われているのだと思います。違っていたら教えてください。ただそのような「悲壮な決意のような覚悟」は救いの必要条件ではありません。

その意味で、すでに「覚悟」をされた方は、現在浄土真宗の教えを聞かれているわけですから、中身を言えば、お釈迦さまのお勧めを聞いています。また、常に南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の喚び声を聞いています。それを聞いて救われて下さい。


「すなはちみづからまさしく身心に当りて」について

この部分は、その直前も含めて引用するとこうなります。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P224)

直前に書かれた、お釈迦さまのお勧めと、阿弥陀仏の喚び声を聞いた上でのことです。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて」それを「すなはちみづからまさしく身心に当りて」ですから、私の上にそれを受け入れた事を言われています。


南無阿弥陀仏という助ける法を受け入れ、私の上に働いているのが信心ですから、信心決定した上で「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜず」と続いて書かれています。
それは、その人が「覚悟」したからではなく「ただちに来れ」の強い阿弥陀仏のお働きによるものです。